バルタン誠路nのブログ

聖書についての随想、書籍感想

イエス様の受洗

 イエス様は、バプテスマのヨハネに洗礼を申し出たとき、バプテスマのヨハネから待ったをかけられう。そして、「今はそうさせてもらいたい。すべてを正しく行うのは、われわれにふさわしいことです。」(聖書協会共同訳)と仰った。


 私は、ずっと、この「正しい(こと)」というのは、旧約聖書に規定されている律法の務めに従うことと思っていたが、そうでないことを今朝の通読で気づいた。洗礼という言葉は、旧約聖書には一度も出てこない。洗礼を受けることは、モーセの律法にはない。ユダヤ人に洗礼を施すことは、バプテスマのヨハネが始めたこと。それにイエス様は、そのバプテスマのヨハネから待ったをかけられても、それを行うことが正しいと言って、あくまでバプテスマのヨハネのもとに、また、神の前に、人々の前に謙った。

 ちなみに「わたしにとって」ではなく「われわれにとって」と、イエス様は、ご自分のことだけではなく、私たちが主に従おうとする者たちのことを念頭において、ご自分の全ての行動を決めておられた。この記事から、今まで以上に、イエス様とバプテスマのヨハネの深い結びつきを教えられた。