バルタン誠路nのブログ

聖書についての随想、書籍感想

サライとハガル 不条理の神

「アブラムの妻サライは、アブラムがカナンの地に住んでから十年後に、彼女の女奴隷であるエジプト人ハガルを連れて来て、夫アブラムに妻として与えた。彼はハガルのところに入り、彼女は身ごもった。…」創世記16:3-4a

 
 ハガルは、上記でもそう呼ばれているように初出の16:1で女奴隷と説明され、その後も出てくるたびに「女奴隷ハガル」となっている。ヤコブにはレアとラケルの二人の妻に加え、それぞれの女奴隷ジルパとビルハも子を産んだが、ラケルもレアもそれぞれの女奴隷を夫ヤコブに与えるとき「ヤコブに妻として与えた」(創世記30:4, 9)と記されている。よって、この時代のこの文化では、正妻と側室というような言葉の使い方はなかったのかもしれない。
 話をサライに戻すと、それでも「…妻サライは、…彼女の女奴隷であるエジプト人ハガルを…夫アブラムに妻として与えた。」となっていて、自分の女奴隷を夫の妻として妻であるサライ自身が与えている。
 
 この記事を読んで三つの事を思った。
 
 ①妻が他の女性を自分の夫の妻として与えるということへの驚き。
 
 サライはこれまでどうしても子供を産めなかったのに、ハガルからはすぐに子供が生まれるという不思議、不条理。
 神様がよく見ておられるなら、まず、このサライがハガルを夫アブラムに与えるという脱線を事前に介入してなぜ、やめさせなかったのか。よしんばそこは失敗とわかっていても自由意思を尊重してあえて介入しなかったとしても、次に、その関係から子供が生まれるということはストップされておけばよいものを、なぜ、ここはうまれるようになさったのか。サライを胎をここまで閉じておられた神がハガルの胎を閉じておくことくらい簡単におできになったものを、と思ってしまう。イシュマエルが生まれたゆえに、後々、そして現代にまで紛争の火種が絶えないことになるのに、なぜ、と思ってしまう。
 
 サライの身勝手に感心してしまう。
 サライは自分に子供ができなくて困っていて自分の発案でハガルを夫アブラムに差し出した時には、妻として与えたのに、やがて自分の胎からイサクが生まれた後には、20章11節でハガルを追い出す時には、「この女奴隷とその子を追い出してください。この女奴隷の子は、私の子イサクとともに跡取りになるべきではないのですから。」と言って、用済みの外部者として切り捨てている。こんなサライ新約聖書では、「かつて、神に望みを置いた敬虔な女の人たちも、そのように自分を飾って、夫に従ったのです。たとえば、サラはアブラハムを主と呼んで従いました。どんなことをも恐れないで善を行うなら、あなたがたはサラの子です。」(Ⅰペテロ3:5-6)と敬虔な女性の模範として扱っている。これをどう解釈したらよいか、今の自分にはわからない。
 
 ②と③について、わかることはほどんどないが、あるとすれば神様は常に人間の思い描く合理性をはるかに超えて不合理、不条理なお方で、であるからこそ、人間のちっぽけな頭で考えられることを遥かに超えてわたしたちにとって「本当によいこと」をなされるお方なのだということ。