バルタン誠路nのブログ

聖書についての随想、書籍感想

わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ。(創世記17:1,2)

わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ。(創世記17:1) 

 
 主はここにいたるまでも何度もアブラハムに現れて語りかけておられる。
 しかし、この創世記17章1節にはそれまでにない3つの新しいことがある。
 
 1つは、神が「わたしは…である。」とご自分のことを語り出ておられるということ。12:1, 13:14, 15:1でもそのようなことはない。15:1では「わたしはあなたの盾である。」という表現はあるが、これは、ケドルラオメルたちへの勝利後、報復を恐れていたアブラハムに、恐れなくてよい理由として、ご自分とアブラハムの関係を語られたのであって、無限定に神ご自身を語りだされたわけではない。ゆえに、17:1がはじめて、神様がアブラハムに自己紹介をされたといってもよいのでないか。「全能の神」=「エルシャダイ」は、そうであるならば、聖書に初めて出てくる神様の名前ということもできよう。
 
 もう一つは、「あなたは…であれ。」と、アブラハムの人格についてはじめて神の御心が示されたことである。それまでは、12章では、「あなたを大いなる国民とし」「あなたを祝福し」と“祝福”を約束。13章では、「この地を…与える」「あなたの子孫を…増やす」と祝福の内容が“約束の地”と“数えきれないほどの子孫”の二つを与えると具体化される。
15章では、子どもが与えられないでいて約束を信じきれないアブラハムに満天の星を仰がせるというオブジェクト・レッスンにより、13章の約束を再確認されていて、新しい要素は加わっていない。
 これまで「わたしはあなたに…を与える」という一方的な関係だったのが、17章に来て初めて、「あなたは…であれ」という要求が語られる。これは、前段の「わたしは…である。」という自己開示があってはじめて続き得るもので、“あなたに対する要求”が加わることによって、はじめて相互関係が成立する。ゆえに、アブラハムはこの段階で、それまでとは比べ物にならないくらい深い関係に、主によって招き入れられたと言えよう。
 
 次に、「あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ。」の部分を思いめぐらしてみたい。
「全き者であれ」との要求は無理なことを要求しているように思われる。これまでのアブラハムはエジプトでパロの前にウソをついて失敗し、妻との間、ハガルとの間でも、煮え切らず、落ち度がいくらでも指摘される歩み方をしてきている。そんな人間であるアブラハムに全能である神の前に完全であれ、というのは無理としか言いようがないように思われる。そして、普通の人間の思考では、人は、より自分に近い程度の低い人の前では比較的落ち度なくあれても、自分よりうんとレベルの高い人から見られると落ち度だらけにみられる、と考えるだろう。たとえば、ピアノを習いはじめたばかいの姉妹がいて、お姉ちゃんが妹のまえで“ちょうちょ”を一応一回もつっかえずに弾けた、すると妹の前では一応完璧に弾けたということになる。しかし、先生の前でやると、テンポもぐらぐらだし,指使いもめちゃくちゃだし、ということになる。
 
 しかし、神様の前にはそうではない。すなわち、人は人の前には全き歩みはできないが、唯一全き歩みができるのは、神の前なのである。たとえば、少年野球のチームに前日までプロ野球で日本一の大投手だったスターが指導に来たとしよう。その大投手は、一通り練習を見た後、全員を集め投球フォームについて一つのアドバイスを与える。それは、簡単なことだが、いままでだれも気付かず、アマのコーチもだれも指摘しなかったことであった。そして、残り時間、みなその指示に従って練習をし、少年たちは自分なりにそのアドバイスを身に着けることができた。さて、最後にみな大投手の見ているまえで、一球ずつ投げることになった。大投手はみなが投げるのをよーく見て、最後に一言「完璧だ!」と叫んだ。
 
 この「完璧だ!」は決して、プロで20勝上げらえる、という意味ではない。しかし、少年一人一人が今、要求されていることに対して、それぞれが出しうるものをきちんと出して見せたという意味である。大投手だからこそ与えることができたアドバイスに、少年一人一人が、その人が言ってくれたから疑わずにそれに身をあてはめ、その人が見ていてくれるから、喜んでその前数時間の練習効果をありのまま見せた。もし、失敗があったらやり直しもさせてくれただろう。そんな関係だからこそ、成り立つ“全き歩み”がここでの意味ではないか。
 
 3つ目の新しい要素は「契約」である。
 「わたしの契約を、わたしとあなたとの間にたてる。」という少々奇妙な言い方がなされているが、これは実に意味が深く、また正確な表現である。
 契約の内容については、100%神様の御心からのみ出てきているので「わたしの契約」である。アブラハムは契約の内容については、1%も事前に関与していない。提案も相談もしていない。
 しかし、契約である以上、対等な関係の二者が必要だ。そこで、①と②で触れた関係が宣言され、そこにアブラハムは招き入れられた。そして、契約には、履行すべき内容が必ずある。神の側は、12章、13章、15章と繰り返されてきた「約束の地」「数えきれない子孫(サラから)」という内容の更新である。しかし、アブラハムの側にも履行すべき内容がここで初めて示される。それが“割礼”である。契約当事者甲と乙ように二部同じものを作成し、割り印を押し、それぞれが金庫にしまっておく契約書は神とアブラハムの間には不可能だ。そうではなく、アブラハムに、そしてアブラハムの家に属するすべての人に自分の身に印をつけてなくならないようにする、確かめることができる、契約書が割礼なのだ。
 
 根拠はなく心象だけからの言い方になるが、アブラハムに割礼の実行が示され、実際にそれに時間を置かずに従ったというアブラハム服従は、イサク誕生に向けての具体的な、手ごたえを感じられる大きな一歩だったのではないだろうか。
 
 それほどまでにアブラハムとサラの地位は高められた。しかし、17節を見ると、この場に及んでもまだ、アブラハムは信じられずに笑い、イシュマエルを持ち出している。私が神なら、この瞬間ブチ切れて、契約も祝福の約束も御破算になってしましそうだが、神様はここでは極めて寛容だ。19節に、いまだ見ぬイサクの名前を挙げて、「わたしは彼(イサク)と、わたしの契約を立て、それを彼の後の子孫のために永遠の契約とする。」と、アブラハムの信仰の不足をご自身の真実と信頼で埋め合わせるかのようにしてくださる。
 
 18章に入ると3人の人が登場する。それまで、どのような形であったかはわからないが、直接に神が語るという啓示の関係で進んできたが、この時は形をとって3人の人が神から遣わされ「来年の今ごろ」という子どもが生まれる約束についてはじめて具体的なタイミングが提示される。これは、受け取る側にとっては、大きな信仰のテストだったに違いない。いつかは与えられる、ということを漠然と信じていることは比較的たやすいだろう。しかし、「来年の今ごろ」と言われるとき、はじめてこちらも信仰の危機に立たされる。ここではアブラハムではなく、サラがそのテストに望み、見事に失敗する。夫婦そろって、「笑う」が身からでた反応だったのだ。13節では、3人の人ではなく、主が直接答える形になっているが、この「笑い」は執拗に確認される。サラは「私は笑っていません。」としらを切り、主は「いや、確かにあなたは笑った。」と言い逃れを赦されなかった。
 
 この後、アブラハムの執り成しの祈り、ソドム・ゴモラの滅亡、ロト家族の救出(妻以外)、ロトと二人の娘の出来事(モアブ人、アンモン人の祖先)、のかなり長い挿入的な話が続き、実際のイサクの誕生は21章に入ってからとなる。それでも、主は、この夫妻の信仰の欠けを責めることなく、辛子種ほどの信仰から大木が育つように、約束の子、イサクが約束通りのタイミングで与えられる。