バルタン誠路nのブログ

聖書についての随想、書籍感想

あなたは良くなりたいか。 ヨハネ5:1-9

2020年7月10日(金) 聖書研究 聖書箇所       ヨハネによる福音書5章1節~9節、新約聖書171頁 1 その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスエルサレムに上られた。 2 さて、エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があって、五つの回廊がついていた。 3 その中に大ぜいの病人、盲人、足のなえた者、やせ衰えた者たちが伏せっていた。† 5 そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。 6 イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」 7 病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」 8 イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」 9 すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。ところが、その日は安息日であった。  ヨハネによる福音書では、これまで各章に主だった人物がかならず登場してきました。第一章が、バプテスマのヨハネ、第二章では母マリア、第三章ではニコデモ、第四書では井戸に水を汲みに来たサマリアの女、そして、今日は5章に入り、38年間病気で苦しんでいる人が主人公として登場します。  このお話の舞台は、エルサレムの神殿より少し北側にあった「ベトザタ」という池とその周りの5つの回廊です。回廊というのは、池の周りをぐるっと囲んだ遊歩道のようなものでしょうか。 そして、そこには、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人なだが、大勢横たわっていました。どうして、池の周りにそんなに大勢の病人やからだの不自由な人がいたのでしょうか?  実はその疑問に応えるためには、4節と5節の間にある小さな十字架のようなマークに注目しなければなりません。このマークは、新約聖書の一番大本になる古いギリシャ語の写本のなかに、この印の部分を含むものと、含まないものがあって、この日本語訳聖書はその部分を含まない写本に基づいて翻訳をしていますが、参考のために書の終わりに載せています、という意味の印です。  それでは。新約聖書の212ページを開いてください。ヨハネによる福音書が終わった後に、別枠で5章3節bから4節という部分があります。そこを読んでみます。 「彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いがときどき池に降りて来て、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。」  この部分を頭に入れて、もう一度5章1節から9節までを読み直すと、やっと文意が通ります。このベトザタの池の周りに大勢の病人、体の不自由な人が横たわっていた理由は、池の水が動いたときに真っ先に飛び込んだ人は、どんな病気でもいやされるという言い伝えがあったからだったのです。  その中に38年間、病気で苦しんでいる人がいて、イエス様がその人に声を掛けられました。「良くなりたいか」 この言葉を皆さんはどのように感じるでしょう。優しい言葉かけだと思いますか。自分もそういう人がいたならば、こういう言葉をかけられる人になりたいな、と感じますか。そういう感じる人は少ないのではないかと思います。38年間も病気で苦しんでいる人にかける言葉としては余りに無神経な気がします。  しかし、この言葉の評価は後回しにして、イエス様とこの病気の人の会話が実際どう進んだかを見てみましょう。イエス様にそう問われて、この病気の人は、「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。」と答えました。またしても、ヨハネ福音書の特徴であるかみ合わない会話がされているように感じます。  しかし、今回は、先ほどよんだ補足の部分を、この病気の人もイエス様も知っているのであれば、会話としては辻褄はあってきます。それでもこの答えは決して褒められたものではありません。「良くなりたいかどうか」を問われたのに対して、「良くなれない理由」を答えているからです。  でも、これは、実に私たちにもよくあることではないでしょうか。たとえば、ピアノを習っている生徒がいるとします。でもなかなか上達しません。そこで、先生から「あなたはピアノが上手になりたいですか?」と聞かれます。その時、「はい、なりたいです」とか「それほどの上達は望んでいません」とかまともに答えることをせず、「だって、塾が週3回入っていて、部活が週3回あって、もう一つダンスも習っていて、ピアノの練習の時間が取れないんです。」と言うようなものです。 もう一つ、このイエスの病気の人との会話を通して私たちの生活と似ているな、と思うことがあります。それは、38年間という、困った状況の長期化です。  どの医者に掛かっても直らなかった。もうお金もない。最後の望みはこの池に真っ先に飛び込むことだ。そう思って、来る日も来る日も、この回廊に横たわっていたのでしょう。しかし、本当に望みがあったかというと、本当のところはもうとっくにあきらめてしまっていたのではないでしょうか。私たちも、望ましくない状態、ダメな状態が長く続くと、例外なく失望、絶望の波にさらわれてしまいます。昨日までダメだったから、今日もダメだろう。今日もだめだったから、明日もダメだろう、とそう思ってしまいます。  しかし、イエス様はこの人が38年間苦しんできたことを知った時、まったく別の感覚をお持ちになりました。イエスという方は、「今日は、この人が良くなる日になるのだ」と願うことができる方なのです。そう考えると、「良くなりたいか」の問いは、「私はあなたが今日、良くなることをすでに願っているが、あなたも、その私の願いに加わらないか?!」というお誘いなのかもしれません。  さて、さらに続きを見ていきましょう。 イエスの言葉が続きます。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」 これは、かなり「いきなり」って感じがします。たとえば、背中が痛み、足にしびれが来ていて、歩けないという人が他人に介助されながら、整骨院にやってきました。やっとのことで、診療室に入り、ベッドに横たわって、診療が始まりました。先生が「良くなりたいですか」と聞かれ、どうして自分は今まで良くなれずに、長引いてきた理由を説明しました。すると、先生がいきなり「起き上がりなさい。そして、荷物をもって家に帰りなさい。」と言われた、というようなものです。  さて、この人はどうしたでしょうか。「先生、なにを言っているんですか。今、言ったでしょ、私には池に入れてくれる人がいないんで、ダメなんです。」などと言わないで、「その人はすぐに良くなって、床を担いで歩き出した。」と書かれています。  この変化はどこから生じてきたかということを最後に考えたいと思います。 福音書の別の記事では、たとえば、「私はよくなりたいです」とか「あなたならわたしを直すことがおできになります。」などの、病気を直してもらう本人からなんらかの積極的な言葉が出てきてから、癒しがなされ、まとめとして、イエス様が「あなたの信仰があなたを救ったのです。」というおほめの言葉が出る、というのが1つのパターンとしてあります。  しかし、ここでは、病気の人からイエス様に寄せる信頼の言葉は出てこないまま、癒しがなされています。でも私はこんな想像をしてみました。、イエス様から「良くなりたいか」と声を掛けられた時点で、この病気の人の心の中にすでに新しいことが始まっていたのではないか、と。すぐには積極的な言葉になって、表されることはなかったけれども、「起き上がりなさい」との言葉には、体が反応できた、そんな想像です。  あまりに無神経と思われた「良くなりたいか」の問いかけが、実は、この人が変わる発端となった不思議な力を持った言葉だったのではないかと、私は思います。  週末に向かう今日一日の私たちの歩みのなかにも、そんなイエス様の語りかけを感じ取ることができたならば、素晴らしいと思います。