バルタン誠路nのブログ

聖書についての随想、書籍感想

マルコ福音書1~3章の研究

マルコ福音書の研究

 

普段読んでいる聖書は新改訳2017だが、小見出しがついているため勉強には使いやすいので、以下の表は聖書協会共同訳に基づく。

見出しは、必ずしも聖書協会共同訳そのままではなく適当に字数のために改編している。



見出し(聖書箇所)

洗礼者ヨハネ(1:1-8)

 

場所

荒れ野

人物

洗礼者ヨハネ

エスの発言

 

発言の直前の様子

 

エス以外の発言

私より力のある方が、後から来られる。私は、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。私は水で洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼を授けになる。

考察

洗礼者ヨハネの行動と発言は、イエス登場以前で、福音書全体の序としての役割。

見出し(聖書箇所)

エスの受洗(1:9-11)

その頃

場所

ヨルダン川

人物

洗礼者ヨハネ、イエス

エスの発言

 

発言の直前の様子

水から上がっているとき、天が裂けて、霊が鳩のようにご自分の中へ降って来るのを御覧になった。

エス以外の発言

あなたは私の愛する子、私の心に適う者

考察

エスのメシアとしての活動開始前の準備①が受洗

見出し(聖書箇所)

荒野の試み(1:12-13)

それからすぐ

場所

荒れ野

人物

霊、イエス、サタン、野獣、天使たち

エスの発言

 

発言の直前の様子

 

エス以外の発言

 

考察

マルコでは「荒野の試誘惑」の記事はあるが、サタン、イエスとも発言内容は記述なし。

野獣が出てくるのはマルコのみ。

見出し(聖書箇所)

宣教の開始(1:14-15)

ヨハネが捕らえられた後

場所

ガリラヤ

人物

エス

エスの発言

時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい。

発言の直前の様子

エスガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、

エス以外の発言

 

考察

マルコが記すイエスの第一声。①神の国の接近。②悔い改め。③福音を信ずべきこと。

見出し(聖書箇所)

最初の弟子たち(1:16-20)

 

場所

ガリラヤ湖のほとり

人物

エス、シモン、アンデレ、ヤコブヨハネ

エスの発言

私に付いて来なさい。人間を取る漁師にしよう。

発言の直前の様子)

網を打っているのを御覧になった

エス以外の発言

 

考察

最初の弟子を得るためにかけられた言葉の特徴は、①直截的②比喩的表現③全く新しい未来と過去及び現在の巧みな関連付け④権威をもった命令(召し)≠提案

見出し(聖書箇所)

悪霊憑きの男の癒し(1:21-28)

安息日

場所

カファルナウム、会堂

人物

悪霊憑きの男、イエス

エスの発言

黙れ、この人から出ていけ。

発言の直前の様子

 

エス以外の発言

(悪霊憑きの男)ナザレのイエス、構わないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体はわかっている。神の聖者だ。

(人々)これは一体何事だ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聞く。

考察

この記事で強調されているのは、イエスの①権威,②新しさ。

v.21で「イエスは会堂に入って教えられた。」との記述はあるが、教えられた内容は記していないのがマルコらしい。けれども人々の反応として「権威ある新しい教えだ」と記す。

見出し(聖書箇所)

多くの病人をいやす(1:29-34)

会堂をでるとすぐ

夕方になって日が沈むと

場所

シモンとアンデレの家

人物

エス、シモン、アンデレ、ヤコブヨハネ、シモンのしゅうとめ、多くの病人

エスの発言

 

発言の直前の様子

 

エス以外の発言

 

考察

マルコでの癒しの記事は概して、イエスがいかにしていやしたかにはあまり関心がなく、多くの人がいやされた事実のみに関心がある。

見出し(聖書箇所)

巡回伝道(1:35-39)

朝早くまだ暗いうちに

場所

寂しいところ

ガリラヤ中の会堂

人物

エス、シモンと仲間

エスの発言

近くのほかの町や村へ行こう。そこでも私は宣教する。私はそのために来たのである。

発言の直前の様子

 

エス以外の発言

 

考察

朝まだき寂しいところでの祈りは、宣教のはじめからイエス日課だったろうが、ここで始めて記述されるのは、弟子たちが気付いたのがこの時点だったことを表しているのか。

見出し(聖書箇所)

規定の病の人を清める(1:40-45)

 

場所

 

人物

エス、規定の病の男

エスの発言

私は望む。清くなれ。

発言の直前の様子

(※)イエスは深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ

エス以外の発言

お望みならば、私を清くすることがおできになります。

考察

マタイでは山上の説教から下山して直後の記事。マルコでは、珍しく、時と場所に関する設定がない。

この記事ではイエスが癒すときの文言も大変インパクトがあるが、それ以上に、その言葉を出す直前のイエスのしぐさ=上記(※)が衝撃的。この一点でイエスは、旧約のすべての伝統、権威、倫理を一瞬にして超えた。

見出し(聖書箇所)

四人と友達と中風の人(2:1-12)

数日の後

場所

カファルナウム、家

人物

エス、四人の男、体の麻痺した人

エスの発言

子よ、あなたの罪は赦された。

なぜ、そんな考えを心に抱くのか。この人に「あなたの罪は赦された」と言うのと、「起きて、床を担いで歩け」と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。

あなたに言う起きて床を担ぎ、家に帰りなさい。

発言の直前の様子

エスは彼らの信仰を見て、その病人に言われた。

エスは、彼らの考えていることを、ご自分の霊ですぐに見抜いて、言われた。

エス以外の発言

この人は、なぜあんなことを言うのか。神を冒涜している。罪を赦すことができるのは、神おひとりだ。

考察

マルコでの癒しの記事としてはすでに6件目くらいだが、「罪の赦し」と「癒し」が直接からんだ形ででてくるのは、ここが初めて。

「信仰を見て」が特徴的。

しかもこの信仰は直接癒された人ではなく、その友達のもの。

個人的に条件を果たして個人的に救われるという信仰の個人主義的な図式には合わない。

見出し(聖書箇所)

レビの召命(2:13-17)

通りがかりに

食卓についておられたときのことである

場所

湖のほとり

レビの家で

人物

エス、レビ、多くの徴税人、罪人、弟子たち、群衆、ファリサイ派律法学者

エスの発言

私に従いなさい。

医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。

発言の直前の様子

エスはこれ(ファリサイ派律法学者

からの非難)を聞いて言われた

エス以外の発言

どうして、彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか

考察

レビ(=マタイ)は、マルコでは、漁師仲間の4人に次ぐ、5人目の弟子。

「通りがかりに」声をかけた、という表現は何を含意しているのか?後にマタイ福音書の筆者となった人物の素性、素質、由緒などはまったくその辺のありきたりの人物。

要は、素材の特別性は必要ではなく、召命の声をかけるお方にのみ、特別性があるということか?!

見出し(聖書箇所)

断食問答(2:18-22)

 

場所

 

人物

エスヨハネの弟子たち、ファリサイ派の人々、人々、弟子たち

エスの発言

花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいる間は、断食はできない。しかし、花婿から取り去られる日が来る。その日には、彼らは断食をsることになる。誰も、真新しい布から布切れを取って、古い服に縫い付けたりはしない。そんなことをすれば、新しい継ぎ切れが古い服を引き裂き、破れはもっとひどくなる。また、誰も、新しいぶどう酒をふるい革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋も駄目になる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。

発言の直前の様子

 

エス以外の発言

ヨハネの弟子たちとファリサイは弟子たちは断食するのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。

考察

マルコの記事には珍しく、ほとんど発言で占められている。

マタイ(9:14-17)、ルカ(5:33-39)とマルコのこの箇所と3か所並行記事かある。ずれも、①断食問答、②花婿のたとえ、③継ぎ切れのたとえ、④新しいぶどう酒は新しい革袋に、の4つの要素を順に記述しており、この三つは全体としてはあ酷似している。しかし、「新しいぶどう酒は新しい革袋に」の結論の適用部分は驚くべき差異がある。

①マタイ:両方とも長持ちする。②マルコ:新しいぶどう酒はあたらしい革袋にいれるものだ。③古いぶどう酒を飲めば、誰も新しいものを欲しがらない。「古いものが良い」というのである。

簡単に言うと、新旧のぶどう酒について、マタイ:新=旧、マルコ:新>旧、ルカ:新<旧。特に、ルカは、セクションをまるまるマルコからコピーしておきながら、結論だけ正反対のものを導きだしている。

この箇所の比較は、聖書のメッセージからは些細なところだろうが、聖書の成り立ち(啓示、人間、各著者の個性)などを考えるときには非常に示唆に富んでいる。

見出し(聖書箇所)

安息日の穂積(2:23-28)

ある安息日

場所

麦畑

人物

エス、弟子たち、ファリサイ派の人々

エスの発言

ダビデが自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。エブヤタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司たちのほかには食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。

安息日は人のためにあるのであって、人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。

発言の直前の様子

弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた

エス以外の発言

御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか。

考察

マルコ2章の4つの記事は、すべて、まわりからイチャモンがついてそれに対してイエスが答える形を取っている。

エスの発言のスタイルは弟子を召すときのあの直截性とは正反対に、比喩的。

安息日」という言葉は、マルコでは、1:21に既出だが、その所では安息日規定違反は問題になっていないので、この記事がマルコに安息日論争の初出。かなり早い段階で、すでにそれが問題となっているとの印象を持つ。

見出し(聖書箇所)

手の萎えた人を癒やす(3:1-6)

安息日

場所

会堂

人物

エス、片手の萎えた人、人々、ファリサイ派の人々、ヘロデ党の人々

エスの発言

真ん中に立ちなさい。

安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。

手を伸ばしなさい。

発言の直前の様子

エスは怒って彼らを見回し、そのかたくなな心を悲しみながら

エス以外の発言

(彼らは黙っていた。)

考察

「真ん中に立たせること」こそが、イエスの癒しの目的だと解する人もいる。

エスが怒りを表した例としては宮清めの記事が有名だが、この記事にもイエスの怒りが明記されている。ただし、悲しみとともに。

見出し(聖書箇所)

湖の岸辺の群衆(3:7-12)

 

場所

湖の岸辺の方

人物

ガリラヤから付いて来たおびただしい群衆

ユダヤエルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りから来たおびただしい群衆

汚れた霊ども

エスの発言

(小舟を用意してほしい)《間接話法》

(自分のことを言い触らさないように)《間接話法》

発言の直前の様子

エスは群衆に押し潰されないよう

霊どもを厳しく戒められた

エス以外の発言

あなたは神の子だ

考察

エス目掛けて集まってきた群衆の数について「おびただしい」という言葉が二度も使われている。この時点でイエスの人気は聖書世界の全国区的広がりを持っていた。

エスは、群衆と汚れた霊ども、両者からの反応を、本来の使命遂行のためにいかなる形においても援用、善用しようとは少しもされなかった。

エスを神の子と宣言するのは、マルコでは、1:1の出だし(表題)、1:11の天(御父)からの声に次ぐ、3番目。筆頭弟子ペトロの信仰告白(8:28但しマルコでは、「あなたは、メシアです」という告白、マタイでは「あなたはメシア、生ける神の子です。」)に遥かに先んじて汚れた霊どもがこれを叫んでいる。

大切なのは、正確な知識、正しい告白以上に、告白する者がいかなる者であるかだ。

見出し(聖書箇所)

12人を選ぶ(3:1319)

 

場所

人物

エス、12使徒

エスの発言

使徒と名付けられた)

(シモンにはペトロという名を付けられた)

ゼベダイの子ヤコブヤコブの兄弟この二人にはボアネルゲス、すなわち、「雷の子ら」という名を付けられた)

発言の直前の様子

これと思う人々を呼び寄せ

エス以外の発言

 

考察

マルコでは、これ以前には、ペトロ、アンデレ、ヤコブヨハネ、レビ(=マタイ)の5人の固有名詞がすでに出てきている。

「弟子たち」という表現は、2:15, 16, 18, 23, 3:7, 9 にすでに現れている。

2:15, 16はレビの催した宴会に同席した弟子たちで、もしかしたら漁師仲間の4人だけだったかもしれない。

2:18, 23,は、ファリサイ派の人々からその行いが「らしくない」と言いがかりを付けられた人々。4人よりもっと増えていたような感じがする。

3:7, 9は、イエスがおびただしい群衆から身を避けるのに同行した面々。それなりの集団になっていて、イエスはその中から12人を特選したのだろう。

12人を特選した理由は、①自分のそばに置く、②宣教に遣わす、③悪霊を追い出す権能を持たせる、ためと書かれている。

そばに置いて訓練するのは、遣わすため。遣わすのは、権能を与えてご自分の代わりに(ご自分と同じ)仕事をさせるため。

12人という数字は、①機能面から(そばに置くのに相応しい小規模、派遣するに都合のよい、割り切れる数)と②経綸面(旧約のイスラエル12部族を意識していることは明らか)の両方の意味があるだろう。

見出し(聖書箇所)

ベルゼブル論争(3:20-30)

家に帰られると

場所

人物

エス、群衆、身内の人たち、エルサレムから下ってきた律法学者たち、

エスの発言

どうして、サタンがサタンを追い出せよう。また、家が内輪で争えば、その家は立ち行かない。もしサタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。また、まず強い人を縛り上げなければ、誰も、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。よく言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠の罪に定められる。

発言の直前の様子

群衆がまた集まってきて、一同は食事をする暇もないほどであった。

身内の人たちはイエスのことを聞いて、取り押さえに来た。「気が変になっている」と思ったからである。

そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。

エス以外の発言

あの男はベルゼブルに取りつかれている。

悪霊の力で悪霊を置き出している。

考察

次のセクションでは、「母ときょうだいたち」が来て外にたち、とある。マタイとルカでは、「ベルゼブル論争」と「イエスの母、きょうだい」の記事は連続していないので、このマルコでもここでの「身内の人たち」に母ときょうだいたちが含まれておらず、後から母ときょうだいたちが呼ばれたと考える必要はないだろう。

ベルゼブル論争についてコメントするのは難しい。

律法学者たちがこう言ったのは嫉妬からであろうか。

エスは弟子以外には基本、たとえを用いて話す。

vv.27-28「人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠の罪に定められる。」のマタイ(12:31)、ルカ(12:10)の並行記事では、それぞれ「人の子に言い逆らう者は赦される」「人の子の悪口を言う者は皆赦される。」と、「人の子に対する冒瀆」と「聖霊に対する冒瀆」が比較され、前者は赦されるが、後者は赦されない、としている要素がマルコにはない。

見出し(聖書箇所)

エスの母、きょうだい(3:31-35)

 

場所

(カファルナウムの家?)

人物

エス、母、きょうだいたち、群衆

エスの発言

私の母、私のきょうだいとは誰か

見なさい。ここに私の母、私のきょうだいがいる。神の御心を行う人は誰でも、私の兄弟、姉妹、また母なのだ。

発言の直前の様子

周りに座っている人々を見回して言われた。

エス以外の発言

御覧なさい。お母様と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます。

考察

「誰でも」はイエスの口癖の一つ。

「〇〇な人とは✖✖な人だ」という定義的な発言の一つ。

エスのこの手の定義は、常識の天地をひっくり返し、誰もできないような独創的な発想からのものが多い。

 

 以上で、今回のマルコ1章~3章の研究は終わりとする。

研究というような代物ではなく、ただのメモに過ぎない。

今回、このようなことをしようと思い立ったきっかけだけ、短く書いておく。

 マルコ福音書の特に最初の3章は、出来事中心、癒し中心で、頻出語「すぐに」でどんどん展開していくというイメージをずっと、持っていた。しかし、今回、マルコを読み始めてみて、各セクションにおいて、イエスの発言は短いながらも重要な役割を果たしているように感じられた。そこで、イエスの発言を中心に据えて、その他の要素を少し背景設定に加えてまとめて見ようと着想した次第である。

 

 すでに、今回のマルコ通読は4章に入っているが、4章は「たとえ話」の章であり、上に用いた手法にはなじまないのが、すでに明らかとなっている。やり方を変えて、4章以降も研究を継続できればと願っている。