バルタン誠路nのブログ

聖書についての随想、書籍感想

ぺヌエルのヤコブ

 「ヤコブが一人だけ後に残ると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。
その人はヤコブに勝てないのを見てとって、彼のももの関節を打った。ヤコブのももの関節は、その人と格闘しているうちに外れた。すると、その人は言った。「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」ヤコブは言った。私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」創世記32:24-27(新改訳2017)

 兄エサウの殺意を逃れて叔父ラバンのもとに杖一本で逃げのびてから20年。ヤコブは、妻たち、子供たち、多くの家畜たちを所有するようになっていた。二人の妻ラケルとレアとの間の愛情獲得バトル、世継ぎ産出競争のなかで板挟みに苦しんだ。叔父ラバンとは、だましまだされのドロドロした関係が続いた。自己中心でガリガリ猛者の青二才だったヤコブは、ベテルを通過した時とは比べものにならないくらいほど人生経験を積んでいた。

 しかし、そんなヤコブでもラバンのもとを逃れ、兄エサウに会うには、まだ勇気が足りなかった。陣営を二つに分けてリスクを分散させ、贈り物と表敬のあいさつを携えた死者を先発隊で様子見に遣わした。そして、兄エサウは400人を従えて自分を迎えにやってくると聞いて、ビビリは最高潮に達した。叔父ラバンと兄エサウという、自分が出し抜いてきた過去と行く手に挟まれ絶体絶命の窮地に追い込まれた。

 妻たちも子供たちも川を渡らせた。財産も向こう岸に運んだ。しかし、ヤコブは、一人残った。ヤボクの渡しを何往復もしただろうに、最後、川のこちら側に一人で戻ってきたのだろう。ラケルに「あなたはなぜ、向こう岸に戻られのですか?」と聞かれ、ヤコブは「ああ、ちょっと忘れ物が一つあってね。」と答えた。などと、空想してみた。

 今こそ、神出動の時が満ちた。突然どこからともなく登場する“ある人”が、ヤコブと夜通し格闘する。ここから聖書の記述は不思議にあふれる。「“その人”はヤコブに勝てないのを見て取って」と続く。個人的には「ヤコブはその人に勝つことができず」というように、ヤコブを主語にして、“その人”の打ち負かし得ない強さを言い表すのが自然な流れに思う。長時間、格闘して互角なのだから、私の提案する文でも成り立つだろう。この聖書の記述では、神的存在である“その人”の方がヤコブに対する挑戦者のような扱いになってしまう。しかし、実際にはそうなのだろう。

 そして考えて見るべきは、この「ヤコブの強さ」とは何なんだろうということだ。ヤコブが万策尽き果てているほどに弱さの極致にある時でさえ、神でも負かし得ないほどの強さがあったのとは、いったい何を言っているのだろう。私は、文脈から言うと、それは、“恐れ”だったのではないかと思う。生まれてからここに至るまでのヤコブの生き方・やり方では、どんなに時間をかけても、どんなに経験値が高まっていても、この恐れは取り去らない。

 そして、今回は直後に後続する「ヤコブは言った。私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」というところに注目したい。“祝福”は、ヤコブの生涯の一つのキーワードである。一杯のあつ物と交換にせしめた長子の権利、母リベカと共謀して父イサクが兄エサウに与えようとしていたものを横取りした祝福、叔父ラバンのところで、幾度も無断改変された祝福、脱法行為すれすれの線でラバンの家畜を減らし自分の家畜を殖やすことに成功して自分で稼いだ祝福!

 しかし、“その人”と格闘し、腰の関節を外され、腕だけでしがみついている状態にまで、落ち込んだ時ヤコブは、祝福についての全く新しい理解に達したのだ。それは、“祝福”は自分の頭を使い、自分の手を伸ばして手に入れる代物ではないということだ。そうではなく、「私を祝福してください」の祈りが示す通り、“祝福”は神の深い御旨から発し、神の口を通して宣言され、人はそれを受けるしかないものなのだ。

 ここまで、自分では描き得ない壮大な失敗の生涯、万策尽き果て、腰の関節を外されるに至った人生のドン底で、この真理を我が物とさせていただく、その導きこそが“祝福”の四次元的実態なのではないか。