バルタン誠路nのブログ

聖書についての随想、書籍感想

ヨナタンについて想う

 今朝、サムエル記第一14章を読んだ。ここにはヨナタンに関するエピソードが綴られている。ヨナタンはイスラエルの初代も王、サウルの息子だ。聖書人物中、稀に見るほぼ欠点の記されていない人物の一人だ。信仰、勇気、友情といった点で際立って優れている。さらには、若くして父サウルと共に戦いで命を落とすという悲劇性が、一際その魅力を引き立てる。

 サムエル記、列王記に登場する人物の多くの親子は優れた「父親と愚かな息子」か「愚かな父親と優れた息子」のパターンである。ヨナタンの父、サウルは、初めは良かったが、王になったあとは、あっという間にその良さを失い、多くの点で悔やまれることを連続してなしていく。「そんな父サウルの元でよくこんな立派な人物がそだったな!」と思ってしまう。

 しかし、人間とはそういうものなのかもしれない。サウルは、初代の王に選ばれるだけの良い要素がたくさんあった。それをヨナタンは引き継いでいる。もちろん、サウルには後に出てくる負の要素もたくさんあった。ヨナタンは、早く死んだが故に、負の要素がでずじまいだった、ということもできよう。サムエルにも、ダビデにも失敗の記事はある。功績も大きいが、トータルで見ると、失点がないといわけにはいかない。自分は良くても子育てに失敗している。また、マナセ、アンモンという二代に渡る毒親からヨシア王のような善王が生まれてくることもある。それが、人間なのだろう。

 誰一人、いいとこだらけの人はいない。逆もまたしかりである。罪故にそうなっているとも言えようが、この地上に不完全な人間にしかいないということは、神様の素晴らしい知恵なのだとも想う。高ぶらないためであり、認め合い、受け入れ合い、助け合うために。そんなことを考えさせてくれるヨナタンをますます好きになった。

 

ヨハネ9章について(二つの対立軸)

生まれつき目の見えない人の癒しの記事。

①原因か目的か

 弟子たち(及び当時の人々)は、この男が生まれつき目が見えないことの原因(誰の罪か)を知ろうとした。それに対し、イエス様は原因ではなく目的(神の栄光が現れるため)で説明された。

 

②枝葉か実か

 イエスが神から出たものかどうかについて。パリサイ人たちは、安息日を守らないのだからという枝葉(外形)から判断。癒された本人は、この方の祈りが聞かれ自分が現に癒されたのだからという実で判断。

誰でもできるキリスト教

 民数記28、29章を読んだ。毎日、週一、月一、年に一度の祭りが3回分、イスラエルの民が捧げるべき犠牲の数が事細かに書かれている。まとめると年間で、牡牛113頭、子羊1,086匹、小麦粉1トン超、油とぶどう酒1,000本となる。これを読んで改めて感じたのは、「旧約聖書の教えは、すべての民族に向けてのものではなく、イスラエル民族に向けて書かれたものだ」ということである。魚を捕って暮らしている人たち、木を切り出して生活している人たち、船やラクダに乗って商売をして生活している人たちには、もともと守れない規定だからだ。

 ユダヤ人たちは、他民族に侵略されることによって、神殿が破壊され、エルサレムから散らされ、生贄の宗教から書物の宗教に変わらざるを得なくなった。イエス様が来られて、ただ一度ご自身の体を永遠の生贄として十字架の上で捧げることにより、これらの古い契約の全てを終わらせて新しい契約を私たちとの間で結ばれた。新しい契約で私たちに求められていることは、キリストの愛のうちに留まり、神を愛し、隣人を愛するということ。これは、どこに住んでいても、何をしている人でもできるものだ。

ペテロと試練

「しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、恥じることはありません。かえって、このことのゆえに神をあがめなさい。」Ⅰペテロ4:16

 

  ペテロは、すでに冒頭の1:6でこのように書いている。

「今しばらくの間、様々な試練の中で悲しまなければならないのですが、試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり」

ペテロ第一の手紙は、このように試練の中にいるクリスチャンを励ます目的で書かれている。そして、その特徴はヨブのように「どうして正しい人が苦しまなければならないのか?!」という哲学的な問いを一切立てないことだ。

 むしろ、キリスト者がこの世で試練を通ることは前提とされており、それがない場合よりもそれがある場合の良い点の着目している。

 ペテロにとって苦しむこと、試練を通ることは、“なぜ?”と問うべきことではなく、大きな喜び、栄光に至通過点と意識されている。

 ヨブとペテロのこの違いはどこからくるのだろうか。それは、ペテロが、正しい人なのに十字架上で苦しむことにより私たちの救いを完成したイエス様を自分の目に焼き付けていたからであろう。

福音の真髄の深化

 パウロは第一コリント16章3〜4節で、「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであっって、次のことです。キリストは、聖書に書いてある通りに、私たちの罪のために死なれたこと、また葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、3日目によみがえられたこと、また、ケファに現れ、それから12弟子に現れたことです。」と書きました。これは、福音の真髄です。しかし、まだ外的事実ですが。

 コロサイ2章12節には、一方、「バプテスマにおいて、あなたがたはキリストとともに葬られ、また、キリストとともによみがえらされたのです。キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じたからです。」と書かれています。こちらは、内的事実として書かれています。

 キリストの上に起きた外的事実が、我が身の内的事実になるカギは、「キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じ」ることです。直接、自分をよみがえらせる神の力を信ぜよ、ではないのです。それは、無理です。やめた方がいいです。しかし、キリストの上には、あるいは内には、その力が働いたことを信じる時に、そして信じる続け、それを見つめ続ける時に、「キリストとともに」自分も死に、蘇る、ということを体験するのです。

マタイの系図の不思議

①男が生んだように記述

「アブラハムがイサクを生み」(新改訳2017、以降も同じ)とあり、お腹を痛めた母サラの名を出してくる気はサラサラない。男が生んだように記述されている。ギリシャ語のエゲネッセンは「父となる」という意味だというのでおかしくもない。しかし、タマル、ラハブ、ルツ、ウリヤの妻と女性の例外的に出てくるところは、どうなっているだろう。「ユダがタマルによってペレツとゼラフを生み」となっている。現代の我々の感覚で言うとこれは逆で、「タマルはユダによってペレツとゼラフを生み」と書くべきところ。要するに、この系図は、生物学的な繋がりを記述するためのものではないことが、以上のことを見てもわかる。

 

②イエスへの接続

肝心のイエス誕生についての記述も興味深い。この系図は夫ヨセフに流れ込む系図である。しかし、イエス誕生については、①で挙げて例に倣っていない。①に従うと、「ヨセフはマリアによってイエスを生み」と書くべきところだ。しかし、マタイは、「ヤコブがヨセフを生んだ。キリストと呼ばれるイエスは、このマリアから生まれた。」と、「父となる」という意味でずっと使って来たエゲネッセンをヨセフを主語にしては使わない。「えげつねーすン」という感じだ。

 

【思い巡らし】

これまで、「ヨセフとイエスは血が繋がっていないのだから、この系図に意味あるの?」という素朴な疑問。これを、「約束のメシアは、ダビデの子孫として生まれる」という預言の成就を示すことが目的であるからという理解で、自分自身を宥めすかして来た。しかし、今回読んでみて、それならば、最後のイエスへの接続のところこそ、「ヨセフはマリアによってイエスを生み」としたらスッキリするのに、何か裏切られた気がした。要するに、私はまだ、このマタイの系図を理解していないことがわかった。

使徒の働きの登場人物とイエスとの結びつき

 使徒の働き7章に出てくるステパノは、十字架のイエスを。8章に出てくるピリポは復活したイエスを。9章以降のパウロは町々村々を巡り、御国の福音を伝え、病をいやし悪霊を追い出した地上生涯のイエスを彷彿とさせる、ということはできないだろうか。