バルタン誠路nのブログ

聖書についての随想、書籍感想

使徒の働きの登場人物とイエスとの結びつき

 使徒の働き7章に出てくるステパノは、十字架のイエスを。8章に出てくるピリポは復活したイエスを。9章以降のパウロは町々村々を巡り、御国の福音を伝え、病をいやし悪霊を追い出した地上生涯のイエスを彷彿とさせる、ということはできないだろうか。

使徒の働きの登場人物とイエスとの結びつき

 使徒の働き7章に出てくるステパノは、十字架のイエスを。8章に出てくるピリポは復活したイエスを。9章以降のパウロは町々村々を巡り、御国の福音を伝え、病をいやし悪霊を追い出した地上生涯のイエスを彷彿とさせる、ということはできないだろうか。

聖霊の流れに乗るイカダ

 福島県の某秘湯に来ている。

 川がすぐ近くを流れていて、ゴーという川の音を聞き、木の間から顔を見せる月を見ながら、しばし秘湯を堪能した。

川の流れの音は、豊かな神様からの語りかけだった。一瞬も途絶えることのないゴーという音。上流から、絶え間なく水が流れてきているからだ。もちろん、大雨の後は大音量になり、日照りが続くと少しおとなしくなるだろう。しかし、この絶え間ない上流からの流れは、やがて海に注ぎ、蒸発し、雲となり、風に運ばれて、また山に雨となって降り注ぐ。そのダイナミックな循環は、人力をも遥かに超えて、大規模かつ精密。そして永続的である。

 聖霊の流れも同じだ。一人の人の努力、才能、機転などは聖霊の流れを思う時、岩に砕ける水しぶきのようなものだ。聖霊の流れに飛び込み、身を任せるように招かれていることを強く感じた。鷲もイナゴもバタバタと自分の羽を動かして進むのではなく、羽を広げて風に乗り、風が吹くままに運ばれていく。聖霊は風であり流れだ。私も、モーターボートやホバークラフトではなく、聖霊の大きな流れに運ばれるイカダとなりたい。

真の多様性について

 昨日に引き続き、今日も午前中、実家の草刈りにいった。そして、今日もなかなか刺激的な出会いがいくつかあった。

まずは、玄関を開けたらいきなり、15cmくらいのムカデが家の中に上がりこもうとしていた。ぞったしたが、心を鬼にして踏み殺してしまった。ティッシュペーパーを4枚ほど手に取って拾い、ゴミ袋に入れた。お腹は白くて柔らかく、ウナギのような触感だった。

 しばらくして、今度は、蝶だか蛾だか(英語にはこの区別はない)がつがいのように向かい合って一体になって飛んでいる姿を発見した。「これはめずらしい、きっとチョウチョの交尾だ!」と一瞬思い、シャッタチャンスをうかがって、近づいていった。するとどうもおかしい。左右対称ではないのだ。チョウチョとチョウチョの取り合わせではなく、捕獲してきた他の生き物のようだった。空中をしばらく飛んで、ある葉っぱにとまり、しばらく食べようとしているように見えたが、まもなく捕獲物をおとしていなくなっていまった。今、ネットで調べたらチョウチョも蛾もいわゆるムシなどは食べないようなので、結局、私が見たものがなんだったのかよくわからない。けれども、イメージとしては、交尾かと思いきや、連行中だったみたいな感じ。

 また、しばらくして、今度は、私のげんこつより一回りか二回りくらい大きなカエルがピョコンと飛び出してきた。今調べたらタゴガエルというのに一番似ていたように思う。色は少し明るめの土色。これまた、気味がわるかったが、シャッターチャンスと思い、手を休め、胸ポケットからスマホを取り出す。一飛びして着地したあたりを見るといたいた。グロテスクに、目が思いっきり左右に分かれ、お腹の辺が膨れたり縮んだり。しかし、これがあまりにも上手にくぼみに潜んでしまったので、そのくぼみを上から覆っている笹が邪魔でカエルの全体像が見えない。カエルは、その打って付けのくぼみでダンマリ。そこで、私は考えた。人間の子供はジッとしていられず、いつも動き回っているが、高校生くらいになると落ち着いてくる。カエルはどうなんだろう。黙ってジッとしている方が身のため、という状況なら、生まれたてのカエルでもジッとしていられるのかな?と。

 実家の庭の草むしりを二日連続でしたが、実に楽しかった。自然は多様だ!神様の創造の世界は実に多様だ。

 

「しかし神は、みこころのままに、それにからだを与え、それぞれの種にそれ自身のからだをお与えになります。どんな肉も同じではなく、人間の肉、獣の肉、鳥の肉、魚の肉、それぞれ違います。」(コリント人への手紙第一 15章38節、39節)

苦き根はえいでて汝らを悩し(へブル12:15)

 今日、久し振りに実家の庭の草刈りをした。裏の方に、隣の家との境に何本かの柘植の生け垣の部分がある。前回の草刈りの時には、時間不足で手つかずにしてしまったところだたので、今日はそこを重点的にやった。ツルが柘植全体に絡まっているのが分かったので、「よし、このツルを全部はがしてやろう!」と思い、とりかかった。

 ツルは、見事なものだ。茎の部分は寄生している柘植の茎とほぼ同じ色。そして、柘植の葉で緑に見えるはずの部分は、自分の葉っぱの緑で同じ色に染めている。パッと見た感じ、少々ツルが絡まっているのはわかるが、柘植もまだまだその下で元気にしているだろう、と呑気に思っていた。

 ところが、ツルを全部はがしてみて呆然とした。柘植はすでにまったく枯れていたのだ。ツルは枯れた柘植の全体に絡みつき、あたかも柘植はまだ健在だと思わせる姿で自分だけが生きていたのだ。

 自分の心を現しているようで、ぞっとした。ツルを思いっきり引っ張ったら、柘植の、枯れてもろくなった立派な枝が、ごろんと落ちてきた。自分はそれだな、と思った。形は立派に見えても、自分自身の管理を怠り、ツルに命を奪われ、訳に立たないものとして、ゴロンと醜態をさらした枝。

 今からでも遅くはない。悔い改めて、主に従っていこうと祈った。

ヘブル書12章、13章とロマ書12章の類似

ヘブル書12章の終わりから13章の初めにかけては、「捧げるべき礼拝の規定」それに続き「愛の具体的行い」が書かれており、ロマ書の12章の前半部分と構造的には似ている。具体的には以下の通り

 

1. 捧げるべき礼拝の規定(ヘブル12:28)

「感謝しつつ、敬虔と恐れを持って、神に喜ばれる礼拝をささげようではありませんか。」

2. 愛の具体的行い

 ①兄弟愛、②旅人をもてなすこと、③牢につながれている人々を思いやること、④虐げられている人々を思いやること、⑤結婚が尊ばれること、⑥今持っているもので満足すること

3. 避けるべきこと

 ①寝床が汚されること、②淫行、③姦淫、④金銭を愛しる生活

神のことばの真実さの背景

列王記第一17章を読んだ。

エリヤ登場の章だ。

ツァレファテのやもめと息子は、エリヤを救い、また

彼らはエリヤによって死から救われた。

そこには「かめの粉は尽きず、壺の油はなくならなかった」という奇跡もあった。

しかし、このやもめの息子が、病気になり、あっという間に命を落とすこととなった。

この章を、最後まで読むと

「今、私は…あなたの口にある主のことばが真実であることを知りました。」で締めくくられている。

この息子の死は、神の言葉が真実であることが現れるために起きたこと。

神の言葉が白い文字で書かれるなら、その背景が濃い色でないと、字が読めないように、神の言葉が浮き立つ背景として神が用意されたことなのだろう。