ヨブ記の最後には、不思議な執り成しの祈りが出てくる。
神は、ヨブの3人の友人を既に赦すことを決めていながら、なお、ヨブの執り成しの祈りを必要とする。
ヨブが、友人のために執り成しの祈りをする時点で、ヨブの健康の回復は明記されていない。
ヨブが友のために執り成した直接の結果として、ヨブ自身の祝福の回復がもたらされた。
そこで思い出されるのが、創世記20章に出てくるアブラハムのゲラルの王アビメレクとの間の話である。アブラハムはエジプト滞在中にファラオに対してなしたのと同じピンク色のウソ(自分の妻サラを妹と偽ることによる世俗権力からの保身)によって、アビメレク一族に迷惑(アビメレクの命が危なかった、妻と女奴隷たちが一時的に不妊になっていた)をかけていた。にも拘わらず、神は、アビメレクに対して「あの人は預言者で、あなたのために祈ってくれるだろう。そして、いのちを得なさい。」と夢の中で語られた。(創世記20:7)。そして、実際、17節では、「アブラハムは神に祈った。神は、アビメレクとその妻、また女奴隷たちを癒されたので、彼らは再び子を産むようになった。」とあり、この嘘つきで人に迷惑をかけた預言者が、神の前に正しく危機一髪のところを神からの直接の啓示で切り抜けたアビメレクのために執り成しの祈りをし、実際にその祈りに効力があった、というのだ。
何か、おかしくないか!、というのが誰しもが抱く素直な印象であろう。ヨブ記の最後に出てくる執り成しの祈りと、この創世記20章に出てくるアブラハムのアビメレクに対する執り成しの祈りを考えるとき、通常、私たちが抱く「執り成しの祈り」あるいは「執り成し手」についての認識を大きく改めなければならないのかもしれない。
少なくとも両者に共通していることは、神様の心は、これらの執り成しの祈りに動かされて変化した、ということではない。執り成しの祈りがなされる前から、神様はご自身がなさろうとすることは決めておられた。そして、むしろ、祈り手に祈るように促しているのが神様ご自身の役割となっている。そういう意味から言うと、真の執り成し手は神ご自身ということになる。アブラハムもヨブも、すでに祈り始めている真の執り成し手である神の祈りに、遅れてご一緒させていただく恵に招かれたということか。真の執り成し手とは、この招きの価値、尊さ、喜びを知った人、そして、真の執り成し手である神の祈りの熱さに少しでも目が開かれた人、ということになるであろうか。