バルタン誠路nのブログ

聖書についての随想、書籍感想

「わたしが(出て)来たのは‥‥」in マルコ福音書

「わたしが(出て)来たのは‥‥」in マルコ福音書
私がピックアップできたのは以下の三つである。
 

①1章38節

 イエスは彼らに言われた。「さあ、近くにある別の町や村へ行こう。わたしはそこでも福音を伝えよう。そのために、わたしは出て来たのだから。
 
②2章17節
 これを聞いて、イエスは彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。
 
③10章45節
 「人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のために贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。
 
 私たちは普段「イエス様は2000年前にユダヤベツレヘムでマリヤとヨセフの子としてお生まれになった。」という表現を使う。それは、聖書的にも決して間違いではない。しかし、マルコ福音書を読んでいくと、イエスの意識の中に「わたしはこの世に生まれたのではなく、来たのだ、父の身許を出て、ここに来たのだ。」と明確に言われている箇所にいくつか出会う。上の三つがそれらだ。
 
 そして、三つに共通して、強い使命感、目的意識を感じさせる。①については、町々村々を実際に歩き回っての宣教。すなわち、「福音=神の国の接近と悔い改め」「福音=ご自分が来られたこと」を人々が聞いてわかる言葉で宣べ伝えること。
 
 ②については、招くこと。病人、罪人、正しくない者たちをご自身のところへ招くため。しかし、イエスは決して、開業医が診療所を開いて患者を待つように、弁護士が事務所を開いてクライアントを待つようにして招いたわけではない。イエスは公生涯の3年半を常に旅から旅へと歩きまわられた。そこで、多くの人々と出会われた。イエスの招きとは、イエスに従って来るかかどうかの決断に直面させることである。マルコ10:46-52にエリコの町の目の見えない乞食であったバルティマイの話がでてくる。彼は、彼の方から激しく「ダビデの子のイエス様、私をあわれんでください。」と叫び続けた。イエスに目をみえるようにしていただいたバルティマイは、最後の52節に短く、「すると、すぐに彼は見えるようになり、道を進むエスについて行った。」とある。これこそが、イエスの招きであり、その招きに応じることなのである。
 
 ③ご自分のいのちを私たち罪人の贖いの代価として与えるため。これこそが、イエス様がこの世に来られた「ザ・目的」である。①や②はこの③のために自動生成されてくる「one of  the 目的s」である。イエスがこの世に来られた目的は、「何かを成し遂げるため」というよりも、「世の始まる前から父とご一緒に享受しておられた独子としての特権のすべてを失い尽くすため」だったのである。このようなことは、このように人間のことばで、サラっと表現しても、到底その意味するところは知りつくすことはできない。クリスチャン生涯とは、この神の独子の喪失を日々より深く教えられ、感謝を深くすること以外にはないであろう。