バルタン誠路nのブログ

聖書についての随想、書籍感想

イエスと父なる神との距離

 今朝読んだマルコ10:17から始まる「金持ちの男」の記事の冒頭部分が引っ掛かった。

 
 エスは言われた「なぜ私を『善い』と言うのか。神おひとりのほかに善い者は誰もいない。」
 
 これを額面通り受け取ると、
①イエスと神は別もの
②“善い”という言い方は神にのみ使い、イエスに対して使ってはならない
 
となり、明らかにイエスと(父なる)神を別存在としてイエスが見ていたことになる。ここで心に引っかかってくるのはヨハネ10:30の「私と父とは一つである。」の言葉だ。この二つのイエスステートメントをどう解釈すればよいのか。
 
 父とイエスが別存在だ、というまでなら、「三つにして一つ」の前半の「三つにして」と適合する。しかし、「一つ」は神学用語では「同一の本質」と言われるが、「善い」という性質を、父には適用可だが、イエスには不可と言ってしまうと、「三つにして一つ」の後半が崩れるのではないか?
 
 もちろん、「三位一体」について異議を申し立てるつもりは毛頭ない。しかし、イエスと父なる神との距離感は、私たちが普段想像する以上の近さと遠さが共存しているのではないか。すなわち、近さにおいては、私たちが理解するところをはるかに超えて本当に一つ。しかも別存在であるがゆえに出てくる一致の尊さがある。そして、遠さに関しても、私たちの理解をはるかに超える距離がある。この距離はある意味、無限の隔たりがあり、そこにはいらないものは何もない。父と子が包み込むのに、守備範囲外、想定外のものはこの世に何一つなく、誰一人いない。
 
 この近さと遠さが神的ダイナミズムの中で生きて作用するとき、神の聖と愛が表されるのではないか。