旧約聖書1036ページ。旧約聖書コヘレトの言葉3章1節〜8節
1 何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
2 生まれる時、死ぬ時/植える時、植えたものを抜く時
3 殺す時、癒す時/破壊する時、建てる時
4 泣く時、笑う時/嘆く時、踊る時
5 石を放つ時、石を集める時/抱擁の時、抱擁を遠ざける時
6 求める時、失う時/保つ時、放つ時
7 裂く時、縫う時/黙する時、語る時
8 愛する時、憎む時/戦いの時、平和の時。
一昨日から、まだ分散ではありますが、全学年が登校してくるようになり、学校に再び活気が戻ってきました。私はどちらかというと一人で静かにしていることが苦ではなく、大勢で騒ぐのがむしろ苦手なたちだと自分のことを思っています。そんな私でも、生徒のみなさんが登校してきて、顔を見ると、不思議と人と人とが実際に合うときに、出会いのエネルギーというか、そういうものが自分のうちにも、また、相手の人々にも、そして、その場全体に湧き起こるのを感じます。
長さだけを考えると、どの、どんな一日も24時間で同じでしょうが、濃さというか密度みたいなものは、濃い〜日と、そうでない日で随分差があるように感じます。
さて、先ほど読んだところは、時について述べている聖書の中でも大変有名な箇所です。その中でも、今朝は特に、5節の2行目に注目したいと思います。
「抱擁の時、抱擁を遠ざける時」という言葉です。
抱擁とは少し難しめの言葉ですが、もっとよく使わる言葉ではハグですよね。
ハグは、相手を受け入れ、相手に受け入れられ、お互いの温かみが伝わり、気落ちしているものを励まし、いいことづくめのように感じますが、聖書は、ハグする時があり、ハグをしない時がある、と言っています。
私が子育てをしていたころのことから一つ例をあげたいと思います。こどもが何か約束を破って、困ったことになり、それがバレた時に、うそをついてごまかそうとしたのが、見つかったということがあったとします。それを親である私が叱ったら、子どもが泣いてしまった、そういうときに、人情としては、すぐに抱き寄せて、「わかったわかった」とやりたいところです。しかし、そのころ、いっしょの教会にいた先輩の牧師夫妻から、「そこで、すぐハグしてはいけない」と口を酸っぱく言われました。「あの子は、神様との大切な時を過ごしているのだから、神様と2人にしておきなさい」と。
この例が適当がどうかわかりませんが、善いことであるはずのハグでさえ、してはいけないとき、しない方が良い時、今日の聖書の表現では、遠ざけるべき時があるというのです。
ずっと仲良しの友達と会えない期間が続き、それが終わり、顔を合わせ、おしゃべりができ、抱擁しあいたい、ハグしたいと思うのが自然でしょう。しかし、今は、ハグを遠ざけるべき時です。
こんな時も珍しいので、ぜひ、人との物理的な距離を取るだけではなく、神様に近づき、神様と2人切りになることを開拓してみてください。きっと、すてきな新しい世界が開けることと思います。
詩編62篇の1節と2節にこのようにあります。
わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。神にわたしの救いはある。」
エドトンという人は、ハッキリ特定することは難しい面もあるようですが、楽器の演奏をする人、あるいは指揮者として旧約聖書に出てきます。ですから、沈黙の正反対の演奏あるいは、歌によって仕事をする人です。そのエドトンに合わせてという表題ではじまる詩編が「わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう」と始まるのは、示唆に富んでいると思います。
本当に沈黙することができる人こそが、本当の演奏を奏でることだできる。
そして、今日の本題にもどると、本当に抱擁を遠ざけることができる人こそが、
本当に抱擁の素晴らしさを味わうことができるといえるのではないでしょうか。
お祈りいたします。
天の父なる神様、新しい朝を感謝いたします。
抱擁する時があり、抱擁を遠ざける時がある。
今の時がどのような時であるかを、わきまえ賢く歩むものとしてください。
主イエス・キリストの聖名によってお祈りします。