(声)語りつぐ戦争 沖縄戦、父が書き続ける訳は
■語りつぐ戦争 平和のバトン 戦後75年
国家公務員 森山知子(埼玉県 46)
沖縄の父は、暇さえあれば戦争体験記を書いていた。いつも戦争の話をした。夕飯のおかずを酒の肴(さかな)に、ビールひと缶で顔を真っ赤にして。
繰り返し話すので、覚えてしまった。家の周辺に焼夷(しょうい)弾が降ってきて花火のようだったこと。父親が喉(のど)の奥から「こぽこぽ……」という音を発し、息絶えたこと。母親の腹に艦砲射撃の鉄の破片が当たり、数時間後に死んだこと。10歳そこそこだった父自身の背にも鉄の破片が埋まった。弟は父の目の前で頭に銃弾が当たり死んだ。まだ赤子だった末の弟は妹に背負われたまま死んだ――。
私が産後うつで苦しんでいた時、父は私に「書け」と言った。苦しいことは日記に書け。お父さんもつらいことは全部書いてきた。最近ようやく、書いてあるから大丈夫、もう覚えていなくていい、忘れてもいいと思えるようになったんだ――。
私はやっと気がついた。父は戦争を語りたかったのでも、書きたかったのでもない。話さずに、書かずにはいられなかったのだ。命を奪われた家族の代わりに、長男の自分が覚えておかなければ。その一念でつらい記憶をたどり、戦争を、家族の最期を思い出し続けてきたのだ。
「書くこと」は、苦しみを通った人の一つの責任であり、同時に一つの鎮痛剤であるのか。(S.Y)