バルタン誠路nのブログ

聖書についての随想、書籍感想

人間的な愛と霊的な愛 「共に生きる生活」ボンヘッファーより 3

人間的な愛は自分自身のために他者を愛し、霊的な愛はキリストのために他者を愛する。したがって人間的な愛は他者との直接的な接触を求め、他者を自由な人間としてではなく、自分につながれている者として愛し、あらゆる手段をつくして獲得しようとし、征服しようとし、他者を圧迫し、逆らうことができないようにし、支配しようとする。

人間的な愛は真理に重きを置かないで、それを相対化する。なぜなら、何ものも、真理でさえも、自分と愛している人との間に介入することを許さないからである。人間的な愛は他者を求め、他者から交わりとお返しの愛を求めるが、他者に仕えることはしない。むしろ人間的な愛は、仕えているように見えるところでも、なお相手から求めているのである。以下の二点において――この二点は結局は同一のものであるが――霊的な愛と人間的な愛との違いが明らかになる。すなわち、第一に、人間的な愛は、真実の交わりのために不真実となった交わりを清算することに耐えられない、そして第二に、人間的な愛は、〈敵〉を愛せない、すなわち本腰を入れて頑強に反抗してくる者を愛せないということである。この二つは同じ源から出て来る。すなわち、人間的な愛はその本質において欲求であり、しかも人間的な交わりを求める欲求である。何とかしてこの欲求を満足させることができる限り、真理のためであろうが、他者への真実の愛のためであろうが、この欲求を捨てることはないだろう。しかしこの欲求を満たすことが期待できなくなれば、そこで人間的な愛は終りとなり、すなわちそこで〈敵〉に直面することになる。そこでその愛は、憎しみと軽蔑と中傷とに変わる。

 

しかし、まさにそこにこそ、霊的な愛が始まる場所があるのである。だから要求せずに仕える真実な霊的愛に出会うと、そこで人間的な愛は個人的な憎しみになる。人間的な愛は自分自身を自己目的とし、業績とし、それに対して崇敬し、すべてのものがその前にひざまずいて崇拝することを求める偶像にする。人間的な愛は自分自身を愛し、この世にあるほかの何ものをも愛さない。しかし霊的な愛はキリストから来る。霊的な愛はただキリストにのみ仕え、ほかの人間に近づくどのような直接的な道をも知らない。