バルタン誠路nのブログ

聖書についての随想、書籍感想

罪の告白と兄弟 「共に生きる生活」ボンヘッファー より 10

私たちを助けるためにキリストは私たちの兄弟となられた。今やそのキリストを通して私たちの兄弟が、キリストから委託された権能において私たちのためのキリストとなった。兄弟は、神の真理と恵みのしるしとして、私たちの前に立っている。兄弟は、助ける者として私たちに与えられている。兄弟はキリストにことを許されたし、またそのようにしてのみ罪人は助けを与えられた。あらゆる見せかけは、キリストの前では終止符を打たれた。罪人の悲惨さと神の憐れみ、これがイエス・キリストにおける福音の真理であった。この真理においてキリストの教会は生きるべきであった。だから主は弟子たちに、罪の告白を聞き、キリストの名によって罪を赦す権能をお与えになったのである。「あなたがたが赦す罪は、誰の罪でも赦され、あなたがたが赦さずにおく罪は、そのまま残るであろう」(ヨハネ二〇・二三)

そのことによってキリストは私たちに教会を与え、また教会において兄弟を私たちにとっての恵みとされた。兄弟は今やキリストに代ってそこに立つ。兄弟の前で、私たちはもはや偽る必要がない。全世界においてただ主にあるその兄弟の前においてのみ、私たちはありのままの罪人であることを許される。なぜなら、ここではイエス・キリストの真理と彼の憐れみが支配しているからである。私たちを助けるためにキリストは私たちの兄弟となられた。今やそのキリストを通して私たちの兄弟が、キリストから委託された権能において、私たちのためのキリストとなった。兄弟は、神の真理と恵みのしるしとして、私たちの前に立っている。兄弟は、助ける者として私たちに与えられている。兄弟はキリストに代って私たちの罪の告白を聞き、そしてキリストに代って私たちの罪を赦す。兄弟は、神が秘密を守られるのと同じように、私たちの罪の告白〔告解〕の秘密を守る。もし私が罪の告白をするために兄弟のもとに行くなら、私は神のもとに行くことになるのである。「だから、キリスト者の交わりにおいては、兄弟としての罪の告白と赦しへの招きは、教会における神の大きな恵みへの招きとして発せられているのだ。

 

罪の告白において交わりへの突破が生じる。罪はその人とひとりだけでいようとする。罪は人を交わりから遠ざける。人が孤独になればなるほど、罪の力はその人の上に破壊的な力をふるい、孤絶した状態が深くなればなるほど、孤独はいっそう救いのない状態とな。罪は知られないままであろうとする。罪は光を恐れて避ける。口に出すことがはばかる闇の中で、罪は人間の全存在に毒をまわらせてしまう。そのことは敬虔な交わりのただ中においても起こる。罪の告白において、福音の光が、心の闇の閉ざされた状態に射し込んで来る。罪は明るみに出されねばならない。口に出すことがはばかれることは、公然と語られ、告白される。秘密にされていることや隠されていることは、今やすべて白日の下にさらされる。それは、罪が口に出されて自白されるまでの厳しい戦いである。しかし神は青銅の扉と鉄の門を打ちこわされる(詩篇107:16)

罪の告白がキリスト者の兄弟の面前でなされることによって、自己義認の最後の砦が放棄される。罪人は自分自身を引き渡し、そのすべての悪を捨て去り、自分の心を神に献げイエスと兄弟の交わりの中ですべての罪が赦されていることを見出す。口に出して告白された罪はすべての力を失った。それは罪として顕わとなり、裁きを受けた。それはもはや交わりを引き裂くことはできない。

 

中略

 

この場合に言われているのは、二人のキリスト者の間の罪の告白だけである。全教会との交わりをふたたび見出すために、全教会員の前での罪の告白が必要とされるわけではない。

中略

 

罪の告白において十字架への突破が生じる。すべての罪の根は、高慢である。

 

中略

 

自分で自分を癒すことによっては、決して罪から解放されることはない。それができるのは、裁きを行い恵みを与える神の言葉だけである。

 

中略

 

人間性の完全な喪生と腐敗とを経験するのは、私が自分の特定の罪において、それらがそもそも私の経験の中に入って来る限りにおいてなのだ。したがって十戒のすべてに即して吟味することが罪の告白の正しい準備となるだろう。もしそうでなければ、私は兄弟の前での罪の告白においてもなお偽善者となり、慰めからははるかに遠い存在であり続けるということになりかねない。