バルタン誠路nのブログ

聖書についての随想、書籍感想

ヨハネ3:16

今日、お読みしましたヨハネによる福音書3章16節は、多くの人から「聖書中の聖書」と言われているところです。また、聖書がなくなっても、このヨハネ3章16節が残れば、聖書全体が残っているに等しい、というような言い方をする人もいます。

 

それほどにこの聖句は重要な箇所だ、或いは、短いけれども、聖書全体を言い当てている、ということが本当であるなら、その特徴はなんでしょう。

 

少し話が飛びますが、聖書全体の一番はじめ、創世記の出だしには、「初めに神は天地を創造された。」とあります。いま、聖書研究で学んでいるヨハネによる福音書の出だしは、「初めに言ことばがあった。言ことばは神とともにあった。言ことばは神であった。」でした。この二カ所は、「初めに」ということばで始まっていることは、共通していますが、創世記の方は、「神は創造された」という「神が主語」で「創造された」という動詞がそれに続いています。それに対して、ヨハネによる福音書の方は、イエス・キリストを意味する「言ことば」が主語で、「あった」という存在を現わす動詞が続いています。

 

さて、それでは、今日、取り上げているヨハネによる福音書の3章16節では、どういう構造になっているでしょうか。ここでは、「神」が主語になっていて、「愛された」と「与えた」の二つの動詞が続いています。形としては、創世記の出だしにかなり似ています。しかし、動詞が、「創造」したから「愛された」「与えた」に変わっています。

 

何もないところから天地万物をつくるというのは、神様にしかできない、文字通りの神業。難易度超ウルトラCです。神様以外のだれにもできません。それは、すべての人が同意できるでしょう。

 

それでは、愛する、与えるはどうでしょうか。こちらは難易度は低く、誰でも日常的にやっているレベルのことでしょうか。

「私は、毎日のように自然にやってます。」という人も多いかと思います。例えば、「昨日、デザートのさくらんぼが一つ足りなくて、自分の分を私は妹にあげました。時々、喧嘩もするけど、私は妹のことが大好きですし、愛してると言えます。」

 

そういう人は少なくないでしょう。それに、そう思っても間違いではありません。しかし、ここで言われている愛は、自分の独り子を与えてしまうほどの徹底したものです。

「独り子を与える」とは何を表しているのでしょうか?それは、すべてを失って自分には何も残らない、ということです。5月21日に本多先生がアメリカ・カンザス州の妻が病気で自分も年を取っている元農業従事者の人が、家にあった5枚のマスクのうち1枚を医療従事者に使ってもらってください、と手紙を書いてニューヨーク州のクオモ知事に送ってきたということを紹介してくださいました。クオモ知事が「これこそ最高の隣人愛だ」と言って話を結ぶのを聞いて、私たちは深く感動しました。その話で言うと、独り子を与えるというのは、自分のところに一枚も残さず、マスク5枚全部をクオモさんに送ってきた、というようなものです。

 

そして、この聖句に出てくるもう一つの重要なことばは「永遠の命」という言葉です。この言葉を聞くといろいろなことを想像すると思います。200歳になっても、500歳になっても1000歳になってもいつまでも死なない、というような不老長寿のようなことを想像してみたり、あるいは死んだあと、神様の御元に行って、神様と共にいて、もう二度と死によって終わることのない状態で神様とずーと一緒にいることを想像するかもしれません。

 

しかし、今日は次ように永遠の命を味わいたいと思います。それは、自分が愛されていることを自覚しながら生きる命です。しかも、神様から愛されていることをです。皆さんのことを愛してくれる人もたくさんいるでしょう。おとうさん、おかあさん、おじいちゃん、おばあちゃん、兄弟、友達。しかし、人間には限界があり、愚かで弱く、間違いも犯します。つまらないことでけんかをするかもしれません。「昨日の友は今日の敵」になるかもしれません。また、あなたが足を滑らせて崖から落ちた仮定してみてください。間一髪で、お父さんが手を伸ばし、あなたの手をつかんで、腕一本で支えていてくれています。でも、父さんの手は、どんなに愛と真実が込められていてもやがて力尽きて、あなたを放してしまう時がくるでしょう。しかし、神様は、どんな時でも私たちを見捨てず、力尽きることもありません。その神様に愛されている。しかも、すべてをご存じで、すべてのをものを持っておられるお方が、ご自分のところに何も残るものがなくなるほどに、私に与え尽くして私を愛していてくださる。

 

そんなこと、どうしてわかるんですか。というかも知れません。それは、イエス・キリストが十字架にかかって、私たちの罪、醜さ、弱さ、苦しみ、孤独、それらのもの全部をご自分の身に追って、究極まで苦しんでくださって、その代わりにあなたはもう苦しまなくてよい、といってくださるからです。

 

それほどまでに、神様に愛されているのが自分であり、自分のいのちであることを自覚しながら生きるとき、永遠の命は死んでからではなく、おじいさん、おばあさんになってからではなく、今からはじまると言えるでしょう。

 

 

神子を信じる者とは、神が独り子を私にお与えになったほどに、神は私を愛していてくださると、信じることです。そういう人は滅びないとは、そういう人は自分の命が決して無駄になったり、無意味になったり、無くなったら無かったのと同じになったりしないこと、愛されているということに、何者によっても消されない価値があることを知ることができるということです。

 

これが、多くの人から聖書中の聖書、聖書全体を一言で言い当てている、と言われている聖句の意味だと私は思っています。