バルタン誠路nのブログ

聖書についての随想、書籍感想

「しなやかな超人」か「完璧なひきこもり」か 対談ー西研✖斎藤環 「ニーチェ ツァラトゥストラ」(西研)

「しなやかな超人」か「完璧なひきこもり」か 対談ー西研斎藤環

 

西 ニーチェが説いた超人のように、他者からの承認を必要とせず、自分が本当にやりたいこと、内側から溢れ出てくるものを見つけられないのも原因かな、といまのお話を聞いて思ったのですが。

 

斎藤 そうですね。私たちはどうしても、「こっちよりもあっちが大きい」とか「こち

らのほうが有利だ」という具合に、比較の発想で物事を考えてしまいがちです。しかし、そのような比較の考え方ばかりしていると、次第にニーチェのいうところの「末人」的になっていくというか、どこかで自分を置き去りにしてしまう気がします。精神科医として言わせていただくと、精神分析的に考える「人の正しい生き方」とは、実は「自分の欲望を諦めないこと」なんですね。これが現在、最も正しいとされています。ただ難しいのは、自分がいま何を欲しているかがわからない状況にあるということですよね。そこでポイントになるのは「自分の欲望こそ、自分自身にほかならない」ということ。自分探しとは、自分の欲望を探すことだと思うのです。だから、比較の発想を少しずつ剥ぎ取ってやめていけば、本当に求めているものが見つかるのではないでしょうか。受験から始まって就職、結婚に至るまで、比較の発想に慣れすぎていると、自分の欲望が見えなくなってしまいます。それを一度、リセットするきっかけをつかんでほしいなと思うのです。

 

西 僕もそれは、すごく共感します。「普通でなきゃいけない」「普通よりちょっといいのがさらに良い」とか、そういった比較の発想の根っこにあるのは「脱落したくない」という気持ちだと思います。世間並みというところから、落っこちたくないという気持ち。ニーチェ的にいえば、世間から評価される前に「自分がどれだけワクワクできるか」を考える必要があります。会社なんて、「自分のワクワクを実現する場所」くらいに思わないとダメかもしれない。理想論かもしれないけれど、脱落しないことをまず考える、つまり物事をマイナスから考え始めるのではなく、「どうしたら自分がワクワクできるのか」というプラスの思考から始めないといけない気

がします。

 

斎藤 自分に対する「力強い肯定感」が非常に薄くなってきていることも背景にありますよね。いじめの問題にしてもニートにしても、特に「ロストジェネレーション」と呼ばれる世代の意識のなかからは、自分への肯定的な要素がどんどん減ってきています。だからこそ、さまざまな問題が浮かび上がってきているのではないかと。

そういうなかで、「とりあえず自分を力強く肯定する」ところから始めるのは、大きな意味があると思います。臨床をしていても、ちょっとしたきっかけで自分を肯定できると、状況が好転することはよくあるんですよ。自分への肯定があると、次の展開に繋がっていきます。そうすれば、西先生がおっしゃるようなクリエイティブな力が起こってくるのではないでしょうか。そういう肯定の価値を、僕はニーチェから学んでほしいと思うのです。

 

西 そうですね。ただし、僕はそうした自己肯定を育むには、やはり、ある種の承認が必要だと思います。それはいわゆる「評価承諾」ではなくて、互いの存在を認めあう「存在の承認」とでも言うべきものですが。そのためには、世間の規範などを抜きにして、お互いの感情を受け止め合ってキャッチボールする関係をつくることが大切です。そういう関係をつくることができれば、「ああ、自分にもちゃんと居場所があるんだ」と納得できるし、「自分と同じ思いを、実は他の人も持っているんだな」と外に向かって視野が開けてきて、それが自己肯定に繋がっていくのではないでしょうか。

 

斎藤 自分を肯定できるということは、「さまざまな偶然を必然と感じられる才能」ではないでしょうか。だから、この本に触れたことも「必然」と感じて、これをきっかけとしてニーチェの著作を読んでみるのもいいんじゃないか、と思いますね。