バルタン誠路nのブログ

聖書についての随想、書籍感想

「悦びと創造性の精神」をもって生きる 「ニーチェ ツァラトゥストラ」(西研)

「悦びと創造性の精神」をもって生きる

 

 さて、最後に、「表現のゲーム」を育てていくさいに大切なポイントをお話しして、第4章を終えたいと思います。それは、先にあげた三つの意義の①に関係してくるのですが、「安心して語り合える空間はどうやったらつくれるのか」ということです。

 

 表現のゲームとは、人々が各自の「生に対する態度」を語り合うことでした。たとえば文学を材料にして語り合ったり、哲学であれば何かの「問題」(正義とは何か、幸福とは何かなど」)について語り合うことになります。しかしそのさいに重要なのは、「間違っているかもしれないことを、不十分な言い方でいっても大丈夫」という安心感を、この場に対してもてるかどうか、という点です。

 

 もし何かいってみたとしても、すぐに「それは違うよ」と否定されたり「それはヘーゲルによればさあ」と知識を見せびらかすような発言が続いたりすると、人は自分の「生に対する態度」つまり「生き方の姿勢」について本気で語ろうとはしないでしょう。「生き方の姿勢」とはその人の内側のことで、ときには内密にとっておきたいことでもありますから、それが他者に対して出せるということは、ここが「安心できる場」でなければなりません。

 そういう安心感はどうやったら育つか?この点についていちばん大切なことは「尋ね合い」だとぼくは考えています。

 

 だれかが何の意見をいったときには、まずそれをきちんと聴き取ろうとする姿勢が大切です。その姿勢があれば、相手の意見に対してすぐさま「それは違う」と自分の尺度で即断したり否定したりすることがなくなります。そしてさらに、その人のいいたいことのニュアンスを確かめる作業が必要になってきます。「ねえ、君のいいたいのは、たとえばこんなことかな?」というふうに、こちらで例にして尋ねてみる。そうやって相手の意見を確かめて、場のメンバーがその人のいいたいことを共有する、という手続きが大切です。

 

 このような尋ね合い・確かめ合いができてくると、「たしかに受け止められた・たしかに受け止めた」という呼応する感覚が出てきます。コール・アンド・レスポンス呼びかけて応える、そのような感覚が出てくる。その感覚があってはじめて「安心できる空間」が成り立ってくるのです。そして、このような安心できる尋ね合う関係が成り立ってくると、発言するほうも、自分の感覚をどういう言葉にすれば相手に伝わるか、本気で工夫するようになってきます。それは、自分自身の感覚に対する鋭敏さを磨くことにもなっていく。この感じでゼミを一年もやっていくと、学生たちが自身の感覚を言語化するときの的確さと、相手の言葉を受け取るさいの鋭敏さとが、ものすごい速さで進歩していくことが実感できます。そしてときには、すごく繊細なところにまでふれるような言葉や、また問題の核心をズバリと射貫くような言葉が生まれてきて、それに反応して場がうねってくることも起こります。このように、尋ね合いが土台となって、ものすごい速さと勢いで言葉が展開する「創造的」な空間が現出してくることがある。創造性と共振性とがすごい勢いで噴出してくるのです。創造性は尋ね合いが土台となってはじめて展開する、のです。史は再び繰り返されるのです。

 

 たとえば、ジャズが発展した一九四〇年代や五〇年代、ロックが発展した六〇年代や七〇年代の初頭は、優れたバンドやアルバムが次々に生まれた特別な時期でした。こうした創造性は、互いが関わり合い語り合うことがなければ決して生まれない。ジャズメンもロッカーも、互いをライバルかつ仲間とみなしていっしょに共同生活をしたり、いつも刺激を与えあったりして濃くつきあっていた。そんななかからしか、創造性は展開していかないようにぼくは思います。

 

 もちろん、小説や思想書を書くような、個人作業で相当に時間をかけてつくらなければならないものもあります。しかし小説も思想書も、結局は、人々の「表現のゲーム」のなかに放たれることになるわけです。ぼくは自分が本を書くのは、自分が学生のときにゼミのなかでドキドキしながら個人発表をした、そのことの延長線上にあると思っています。自分が書いたものが触媒になって、一人ひとりが考えたり語り合ってもらえればいいな、と思っているのです。

 

 この、個別化がきわまったようにみえる日本社会のなかで、どうやってこの「表現のゲーム」を育てていけるか。ぼくはこれがいちばんの課題だと考えています。ですか、ニーチェの超人を「自分一人で創造性をもって生きていく」と考えることからもう一歩踏み出して、コール・アンド・レスポンス的な空間を育てながら、その関係性のなかで互いに創造力を発揮していければいいと思うのです。そうしてこそ、ニーチェがほんとうに伝えたかった「悦びと創造性の精神」がこの社会に蘇るのではないでしょうか。