バルタン誠路nのブログ

聖書についての随想、書籍感想

「キリストに従う」ボンヘッッファー著 序文より抜粋

 ある 人たちが、ただひたすらにキリストの宣教であろうとしているわれわれの説教を、自分たちには縁遠 いきまり文句や概念で一杯になってしまっているということを理由に、厳格かつ難解であると感じた としても、それはそういう人たちだけに責めを負わせるべきことではない。今日われわれの説教に向 けられる批判の言葉が、すべてキリストに対する拒絶であり反キリスト教であるということは、真相 をうがった見方ではない。われわれの講壇にやって来て、説教を聞くことを望みながら、われわれが イエスに至る道を困難なものにしているということを、悲しみの面持で繰り返し告白しなければなら ないような人は今日多いのであるが、そういう人々との交わりをわれわれは本当に拒もうとしている のであろうか。彼らが忌避しようとしたのはイエスのみ言葉自身ではない。そうではなくて、あまり にも多くの人間的なもの・制度的なもの・空理空論に類するものが彼らとイエスとの間にはいって来 たのだと、彼らは信じている。ここでそういう問題に対して与えることのできるような、そして、そ の問題を提出している人たちに対する責任を楽々と回避できるような、そういう答えを全然知らない ような者が、われわれのうちに果たしているだろうか。しかし、われわれが次のような問いを自分に 発するならば、 それもまた一つの答えなのではないだろうか。 その問いとは、恐らくわれわれがき まりきった公式や、ある時や場所や社会構造などに都合のよい説教の型にしがみつくことによって、われわれが実際に「教義的」であり過ぎ、「生活に即応して」 み言葉を説くことがあまりにも少ない ことによって、また、聖書のある考えを好んでいつも繰り返し語りながら、大切なほかの言葉は不注 意にも通りすぎてしまうことによって、さらに、いつものことながら、自分の意見や確信を説きすぎ、 イエス・キリストご自身のことを説くことが少なすぎることによってそういうふうなことによっ て、われわれは自分でイエスのみ言葉の前進を妨げているのではないか〉という問いである。イエス がご自身のもとに招き給うたのも、苦労している者、重荷を負うている者であったが、そういう人た ちに、重い人間の規則を負わせて、またもやイエスのもとから追い払う場合よりも、もっと深くわれ われ自身の意図に矛盾するものはないし、また同時にそれ以上にわれわれの宣教に害毒を流すものも ない。それによってイエス・キリストの愛は、キリスト者と異教徒との前ではずかしめを受けるので ある。しかし、ここでは一般的な問題や自己告発は何の助けにもならないのであるから、われわれは 聖書とイエス・キリストご自身の言葉と招きに帰って行こう。ここでわれわれは、自分の確信や問題 の貧しさと狭さから抜け出て、イエスにおいてわれわれに賜わる広さと富を探し求めよう。