「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたがた偽善者に災いあれ。
あなたがたは、ミント、ディル、クミンの十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な公正、慈愛、誠実をないがしろにしている。これこそ行うべきことである。もっとも、十分の一の献げ物もないがしろにしてはいけない。ものの見えない案内人たち、あなたがたは、ぶよは漉してして除くが、らくだは呑み込んでいる。」マタイ23:23,24 聖書協会共同訳
しかし、今朝、この聖書の箇所を読み、改めて驚きを感じた。このマタイ23章は、「災いなるかな偽善の律法学者、パリサイ人」という定型フレーズで、イエス様があのお優しい人格からは想像がつきにくいほど、鋭く彼らの偽善を立て続けにお責めになる箇所だ。そして、その一つ一つがあまりにも鋭い。
ここでは、そのうちの一つだけを引用した。神様に向かって使うには失礼だが、「天才的」としか言い様もないほどの本質のつかみ方と、表現だ。そして、これを当てはめたくなる他人も常に周りにいるにはいるが、まずは、この言葉の矢は、自分自身に突き刺さり、一発で身動きがとれなくなるほど貫かれる。
しかし、不思議にも、この矢は、命を奪うためではなく、古い自分から新しい自分に生まれ変れる希望を、痛みの中から芽生えさせくれる。