バルタン誠路nのブログ

聖書についての随想、書籍感想

イエスの荒野の試み

 マタイ福音書の3章、4章を続けて読んでいくと、前ブログで書いたように、3章最後のイエス受洗の記事では、イエスバプテスマのヨハネの結びつきが心に残るが、その印象をもったまま4章に入ると、今度は、イエスと悪魔との結びつきの深さが強く心に迫ってくる。
 「エスと悪魔との結びつきの深さ」という表現は、あくまでバプテスマのヨハネとの関係との類比で使っているまでのことで、ふさわしい表現では当然ない。改めて表現し直すと、イエスがいかに強く悪魔の働き、やり口を意識しておられたか、悪魔のことを意識せずにご自身の働きを考えることはできない、ということになるか。悪魔も、その性質上、あちらのベストを尽くしてイエスに挑むことを一瞬たりともサボることはあり得ないのだ。
 しかし、マタイ4章1節~11節の構造を見ると、1節に「“霊”に導かれて」で導入され、3節「すると、誘惑する者が来て」、11節「そこで、悪魔は離れ去った。」と悪魔の入退場が記されている。悪魔の入退場は、あたかも聖霊が準備した舞台の指定された出番に許可されて登場したかのようだ。悪魔がどんなに巧妙でも、それは根本的にはすでに、そしてもとからもっと大きな存在によってコントロールされている。ゆえに、それを知るクリスチャンは、「すべてのこと合い働きて益となるを我らは知る」と大胆に告白して進むことができる。
(S.Y.)