バルタン誠路nのブログ

聖書についての随想、書籍感想

イエスのネガティブ・ワード

 マタイの8章5節~13節には、“百人隊長のしもべの癒し”が書かれている。「わざわざあなたにおいでいただくほどの資格が自分にはありません。おことばをいただければ癒されます。」と言った異邦人百人隊長の信仰をイエス様はべた褒めし「イスラエルのうちのだれにも、これほどの信仰をみたことがありません。」と胸のすく言葉を残される。

 たいていは、この箇所はこれ以上扱われることはないと思う。しかし、聖書の記述はここで終わっていない。読み手が読んでも無意識のうちに記憶から抹消している「イエスのネガティブ・ワード」とも言うべき言葉でこの出来事は締めくくられます。また、福音書の記事のいくつかは同じ構造になっている。

 12節の「しかし、御国の子らは外の暗闇に放り出されます。そこで泣いて歯ぎしりするのです。」という言葉です。ほぼ同様の並行記事を列挙すると以下のようになる。


 ①マタイ13:42《「毒麦のたとえ」の締めくくり》
  「 火の燃える炉の中に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。」
 
 ②マタイ13:50《「地引網のたとえ」の締めくくり》
  「火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。」

 ③マタイ22:13《「王子の婚礼」の締めくくり》
  「そこで、王は召使いたちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇に放り出せ。この男はそこで泣いて歯ぎしりすることになる。』」
 
 ④マタイ24:51 《「忠実なしもべと悪いしもべのたとえ」の締めくくり》
  「彼を厳しく罰し、偽善者たちと同じ報いを与えます。しもべはそこで泣いて歯ぎしりするのです。」

 ⑤マタイ25:30《「タラントンのたとえ」の締めくくり》
  「この役に立たないしもべは外の暗闇に追い出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ。』」

 ⑥ルカ13:28《ルカ版「あなたたちのことは知らない」の締めくくり》
  「あなたがたは、アブラハムやイサクやヤコブ、またすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分たちは外に放り出されているのを知って、そこで泣いて歯ぎしりするのです。」

 6分の5がマタイであることがわかる。たとえば、③で上げたたとえは、ルカ14:15~24に並行記事(但しルカでは王子の婚礼にはなっておらず、ただの盛大な宴会)があるが、こちらの締めくくりにはこの種のことばはない。マルコとヨハネには皆無となっている。これは、だいたいにおいて外に放り出されて歯ぎしりするのが当時のユダヤ人のことを言い当てており、マタイ福音書がそのユダヤ人を想定読者として書かれているためか?

 いずれにしろ、聖書、特に福音書、とくにマタイを読んでいくうちに出くわすこれらの「イエスのネガティブ・ワード」をどう解釈すればよいのか?

 福音が福音であるためには、滅び、裁き、歯ぎしり(=永遠の悔い)などと表裏一体のものとしてしか存在しないということか。すなわち、これらのネガティブ・ワードを言わなくなると、すなわちそこで語られる福音もおもてしかない銅像のようなもので、背中もおしりもなく、本物ではなく見せかけになってしまうということか?