バルタン誠路nのブログ

聖書についての随想、書籍感想

ツァアラトに冒された人の癒し(マタイ8:1~4)

  この箇所は、マタイ福音書で山上の説教が終わって、イエス様が山を降りてから初めての出来事として記されているので、非常に位置的に重要なものである。ある意味、山上の説教は御国の理念を言葉で連続講義されたものであるが、山からおりて実社会でそれがどう展開されるかが最重要である。その注目があつまるところで、最初になされたのが、このツァアラトに冒された人の癒しである。

 
 この記事は短いがいくつもの重要な要素が込められている。
 
①ツァアラト
 イエスの行った癒し全体としては、悪霊追い出しが数としては最多である。しかし、イエスが行った奇跡、その中でも癒しの事例の先頭に位置しているのは、ツァアラトである。これは、特別に旧約の律法と深い関係があり、認定も、治療方法も、治癒宣言の方法も律法で定められていた。ある意味、律法が製造した病いであり、穢れであり、孤独であり、非人間化である。そこに、当時の社会のひずみ、脱線、苦しみ、罪、などがすべて象徴的に詰まっていたと言えよう。
 
②律法違反
 イエスはこの病いを持った人に手を伸ばして触っている。これは、あきらかな律法違反である。旧約では、穢れは遠ざかるべきもので、触れてはならない、触れることは一番してはいけないこととされていた。イエスは、あえてその行為をして癒された。
 
③律法超越
 「わたしの心だ。きよくなれ。」このことを願うこと、わたしの願いだ、といってご自身発の願いとして公にすること、そしてそうすれば癒しがなされることは、実に驚くべきことである。これは、創世記一章一節の、ことばによる天地創造に匹敵する。ここでのイエスは律法をはるか下にして、律法の付与者、万物の創造主、万物の保持者としての権威をしめしている。と同時に、そこに権威だけでなく、愛がにじみ出ている。
 
④律法遵守者
 「ただ行って自分を祭司に見せなさい。そして、人々への証のために、モーセが命じた捧げ物をしなさい。」
 ここで、また、イエスの別の面の偉大さに気付く。イエスは、この癒された人が戻っていく社会をよくご存じなのだ。そして、そのユダヤ教ガチガチの社会、問題ありありの社会をそのまま受け入れ、あるがまま受け入れ、そこで人間が生きていくことを願っておられる。福音は、それを受け入れた人々によって、時間をかけて社会という大きな仕組みをさえ変えていくだろう。しかし、福音を受け入れた人、神の愛に触れられ、救いを受けた人は、基本的にはその直前まで属していたナマの社会に戻され、そこで神とともに歩むことが望まれている。
 
⑤メシアの秘密
 「だれにも話さないように気をつけなさい。」
 この注意が直接だれのためなのか、はっきりしないかもしれない。この癒された人が平穏に生きていくためだったのか、イエスご自身が癒し専門家として必要以上に取り上げられることを避けるさめだったのか。
 いずれにしても、イエスは、この手の表沙汰を嫌い「黙っているように」という種の発言をしばしばされた。情報、集客、動員力、露出、セレブ、業績、知名度、、、、といったキーワードが幅を利かせている社会に住んでいる私たちが、とっくに失っているとても大切な神と私との関係の秘密に導いてくれる門がここから開かれていくような気がする。