バルタン誠路nのブログ

聖書についての随想、書籍感想

イエスの洗礼者ヨハネへの宣教レポート

ルカ7:22

それで、こうお答えになった。

「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。

目の見えない人は見え、

足の不自由な人は歩き、

規定の病を患っている人は清められ、

耳の聞こえない人は聞こえ、

死者は生き返り、

貧しい人は福音を告げ知らされている。

私につまずかない人は幸いである。」

 

 今まで何気なく読み過ごしていたが、この箇所は非常に貴重なところだ気付いた。なぜなら、イエスご自身が、ご自分の活動をご自分の口でレポートしているからだ。しかも、報告する相手は洗礼者ヨハネなので、これ以上の質を求めることは地上ではできない。

 その枠組みを抑えて、レポートの内容を見ると、ある人にとっては「そうだろう、そうだろう」と深く合点がいくかもしれないが、私にとっては若干、意外な感じがした。

 

 ルカにおけるガリラヤ伝道の第一声(4:18)として位置づけられているイザヤ書61章1、2節からの引用の部分と内容的によく符号している。イエスの活動の真っ先に挙げられているのは、“癒し”である。規定の病の清め、死者(=病の最大・最終形)の蘇りまで大きく“癒し”と分類することも可能だ。

 最後に出てくる「貧しい人には福音」は、ルカ6:20から始まるいわゆる「平地の説教」の冒頭「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである。」と一致している。よく知られているように、マタイの山上の説教の冒頭にある「心の貧しいものは幸い」の「心の」がルカにはない。ルカはよりダイレクトに「貧しい者」の幸いを「福音」と言うのだ。

 

 お金がない人々、食べていけない人々、病んでいても医者にかかれない人々、社会の底辺にいて虐げられている人々に対して、「可哀そう。」「大変ですね。」「神様の助けがありますように。」とは、誰でも言える。しかし、こうした人たちに対して「あなた方は幸いだ。」いや、「あなたがたこそ、この世で一番幸いだ。」なんて口が裂けても言えない。言えない、前に、そう発想することが人間にはできないであろう。

 

 しかし、主イエスは、まさに、これらの人々こそ幸いだ、と本気で言った人なのだ。そして、大切なのは、こんな革命的な言葉を言えたこと、言ってのけたこと以上に、これを言える理由をご自身の中に持っておられたことだ。それこそが福音の核心だ。

 

 どうして、貧しい人が幸いだと、言えるのか?

①イエスがともにいるから

 この世の最高の富を持つ人の富も、世の始まる前から御父と一緒に持っていて享受されいた神の独子の栄光と富とくらべたら何にもならない。その天の栄光と富を一手にお持ちのかたが、人となって、貧しくなってくださって、貧しい者たちとともにいてくださるのだ。私は貧しい人たちの友となるために来たのだ、と仰る。

 

②イエスがその栄光と富を貧しい人々のものとしてくだあるから

 ①は真に富んでいる方が貧しい私の隣にいてくださる、ということだった。しかし、②は、さらに一歩踏み込んで、その時をイエス様が捨てて、私のものとしてくださる、ということだ。この場合の富は、何か金額や数字で表されるものではない。究極的には、イエスがわが者となり、われはイエスのものとなる、という関係に入ることだ。そして、それは、信仰によるというのが福音だ。

 どんなに貧しくてもよい、どんなに病んでいてもよい、どんなに見えなくても、聞こえなくても、立てなくてもよい。死んでいてもよい。自分ではどうしようもなく、「自分は終わった」というところまできた人に、イエスはそこでこそ招く。

 「わたしは、あなたの今いるどん底で友となるために、私が天から携えてきたもののすべてをあなたが受け取ってくれるためにここに来た。私を信じなさい。わたしが共にいることを信じなさい。わたしがあなたを愛していることを受け入れなさい。そうすれば、あなたは、本当に豊かな人になります。そして、そのようにして、わたしの言葉があなたの上に成就していくのです。」 主イエスは、そう語っているように思える。

 

 バプテスマのヨハネへのレポートという表題からはだいぶ逸れてしまった。先ほど、少しふれた私が抱いた若干の意外感というのは、「イエス様は、洗礼者ヨハネに対する宣教報告の中で、十字架のことは言わなかったのだな。」ということだった。しかし、それは多分、変貌山での出来事もまだ迎えていないこの段階では、洗礼者ヨハネも含めて、十字架を理解できる人間はいなかったからではないかと想像してみた。