バルタン誠路nのブログ

聖書についての随想、書籍感想

変貌山での祈りと会話(想像編)

 ルカでは「イエスは、…祈るために山に登られた。」と、変貌山に登られた理由が明記されている。

①イエスの顔の様子が変わり

②衣は白く光り輝いた

モーセとエリヤが栄光に包まれて現れ、

④イエスとイエスのご最期について話していた

 

ペトロと仲間たち(=ヨハネヤコブ)は、眠りこけていたが、目を覚ますと「イエスの栄光と、一緒に立っている二人の人が見えた。」と書かれている。

 

【なぜ3人の弟子たちは眠りこけていたのか】

 ペトロ、ヨハネヤコブの3人の内弟子が重要な場面で眠りこけるのは、この変貌山での出来事と、ゲッセマネの園での祈りの場面に共通している。大勢の弟子の中から特別に12使徒に選ばれ、更に特別に超重要場面で、イエス様のみそば近くにいることを許されたというのに、なぜ、眠りこけてしまったのか?ハッキリは分からないが、何となく分かるような気がすると長年思ってきた。人間、極度の緊張がしばらく続くと、眠くなるものだ、というのが私の持っていた浅薄な理解だった。

 今回、このところを読んで、眠くなった理由については新しい発見や想像はないが、別のことが気になった。それは、この人たちは眠りこけていたのに、どうして目が覚めた途端に、イエス様と一緒にいる二人がモーセとエリヤと分かったのか?32節には、「目を覚ますと、イエスの栄光と、一緒に立っている二人の人が見えた」とあるので、上記①〜④までのすべてが、眠りこけているうちに始まり、目が覚めた時初めて見た、ことだろう。(ということは、彼ら3人が眠りこけたのは、高い山に登ってきた疲れからだったのかも。)

 旧約の聖徒たちの肖像画(私たちにとってのハイドンやベートベンのような)の決定版みたいなものが出回っていて、顔を見れば「この人、モーセ!この人、エリヤ!」とわかったのだろうか。そんな肖像画はなかったのではないか。少なくとも、現代にまで伝わっているものはない。勿論、そこに超自然的な直感力が働き、認識できたという可能性は残されていてよい。

 

【イエス様の祈り、三者階段の大胆な想像】

 今回、新たに思わされたのは、そもそも、イエス様は何をここで祈っておられたのだろうか、その祈りの内容である。それは、勿論、山上での三者会談のテーマだった「エルサレムで遂げようとしているご最期」についてであったと想像してよいのではないか。大胆不敵にもイエス様の祈りの文言を想像して見た。

 

エス 「父よ。わたしの地上生涯をここまでお守りいただき感謝いたします。多くの弟子たちの中から、先日、祈りの中であなたとご相談させていただきながら12人を使徒として特別に選びました。ご存知のように、この選考は本当に苦労いたしまし。そして、最近は一応の訓練を終え、2人1組にして町々村々に派遣いたしました。わたしが与えておいた権能により、彼らは、神の国を宣べ伝え、病人を癒してまいりました。その宣教報告も受けました。人々の間では、わたしが何者かについての議論が起きております。洗礼者ヨハネだ、エリヤだ、昔の預言者の一人だなどと言われております。12使徒たちに、『わたしを誰だと思うか?』と聞いてみたところ、代表してペトロが見事に『あなたは、神の御子、キリスト(=メシヤ)です。』と答えました。そこで、わたしは、初めてわたくしの死と蘇りのことを彼らに語りました。けれども、このことは、まだ、彼らには硬すぎる食物でした。さて、いよいよ、わたしの受肉の目的である十字架死が現実の者として見えてきました。そこで、今日は、このことについて集中して御父の御心を確かめたいのです。」

御父「わたしも、そのことについてあなたと親しく語り合いたいと考えていたところだ。そこで、今日は、あなたのところに、モーセとエリヤを遣わすことにする。あなたが遂げようとしている購いの死は、我々が世を想像する前からの計画であった。そして、それは、そこに至るまで人類を段階的に導いてきた律法と預言者にすでに啓示されてきたことの成就以外の何ものでもないのだ。モーセとエリヤとよく話して、よくよく啓示の一貫性が保たれ、細部に至るまで美しく調和するように、詰めるとよいと思う。」

 

 こんな感じで、モーセとエリヤが登場したのではないか。そして、もしかしたら、三者会談中にそばで眠りこけている3人の弟子たちのことも話題に上ったかもしれない。

 

モーセ「この3人があなたがお選びになった筆頭弟子の3人ですね。」

エス「そうです。こんな姿を晒しているが、大目に見てやってくれ。肉には限界があるからね。」

モーセ「勿論です。けれども、彼らには、わたしの教えはちゃんと入っていますね。」

エリヤ「私もカルメル山での戦いの後は、肉丸出しで。後世の人に全部読まれてしまって、お恥ずかしい限りです。」

モーセ「エリヤ君。恥ずかしいのは私の方ですよ。私だって、聖書に載っていることのほとんどは、わたしの失敗ですよ。」

エス「いまさら二人で何を言っているんです。御父とわたしが、そもそもあなた方を選んだのは、あなた方が失敗しない人たちだからではありませんよ。」

エリヤ「そうでした。わたしなんて、あの時代、わたしほどバランスの悪い預言者はおりませんでした。しかし、神の見手に握られるとき、神様のお仕事が果たせるのです。」

エス「そう。だから、今ここで眠りこけている3人も、今はまだほとんど何も理解でないし、目を覚ましていることもできない。でも、わたしは失望していません。これでよいのです。彼らは、必ず、わたしの十字架を、そして彼ら自身の十字架を負って、わたしについて来るようになります。それができるようになるために、わたしは十字架にかかり、そして聖霊が彼ら一人一人に宿ることができる時代が開かれるからです。」

 

 山上での三者会談のテーマは「イエスのご最期」と明記されているので、上記の想像はあまりにも荒唐無稽かもしれない。しかし、この程度の想像力を持って、聖書を読むことをぜ御父にお許しいただきたい。あるいは、「そうでは、ない、こうだ。」と、この陳腐は想像が呼び水となってもっと確かな真理が掲示されるのではないかと密かに期待している。