バルタン誠路nのブログ

聖書についての随想、書籍感想

イエスの衣の裾に触れる

 ルカ8章40節から「ヤイロの娘とイエスの服に触れる女」の記事が展開する。

 このところ、神の全知全能について少し頭の隅に置いていつも考えている。

神が全知全能ならすべてをご存知なはずなので、驚いたり、怒ったりされるのは矛盾ではないか。

 しかし、実際、旧約聖書に出てくる神は、実に頻繁に怒り、時には後悔もし、あるいは人の執り成しの祈りのゆえに思い直されたりもする。と、同時に三位一体で父なる神と同一の本質を持たれる御子イエス様の地上生涯を見るときにも、表面上、全知全能とは矛盾することがたくさん出て来る。イエス様も人々の不信仰に驚かれ、異邦人の深い信仰に驚かれ、弟子たちの無理解に嘆かれ、また、祈りの家である父の家が強盗の巣にされていること、宗教生活から命が取りさられ、形式主義に陥っていることに怒りを露わにされた。

 

 さて、このルカの8章40節からの記事の中で、気になったのは、46節の「誰かが私に触れた。私から力が出て行ったのを感じたのだ」と言うイエス様のことばだ。

 

 ①イエス様にもわからないことがあった。誰が触れたか、触れる前からお見通しではなかった。触れられる前から力を出そうと予定されてはいなかった。

 

 ②イエス様がこうしようと御心を持っておられてのではないことが、信仰の手を伸ばしてイエス様に触れた一人の人の行為によって、ある意味、自動的に生じた。

 

 ③「私に触れた」とイエス様は仰ったが、実際には、イエス様の体の一部に触ったのではなく、イエス様が着ておられた衣のしかも裾にやった触れたのだ。そうすると、②のことを何か物理的な接触と捉えることは難しい。例えば、イエス様の体が癒しのパワーが充電されているバッテリーのようなもので、そこに線を繋げれば瞬時にして電気やエネルギーが他の物体に通う、というようなものではなさそうだ。この触れるというののは、物理的な接触ではなく、信仰的な接触なのだろう。

 

 ④「裾」は、聖書協会共同訳の脚注によると別訳「房」となっている。そこで、「衣の房」で関連記事を当たると、マタイ 23:5に「そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。」とある。ここでの「衣の房」は、ファリサイ派の人々が、自分たちの宗教的熱心を見せびらかせるための道具となっていることが指摘されている。しかし、イエス様の衣の裾は、「すべて疲れた人、重荷を負って苦労している人」が触るだけで癒しがその人のものになる、天の神様の憐みの出張所のようなものだったのだ。裾があるいは房がそのようであったということは、もちろんイエス様の最奥部も憐みに満ちておられたことを表しているのだろう。イエス様の最奥部に私たちは、直接手を伸ばして触ることはできない。しかし、イエス様の一番外側の衣の裾に触れる時、イエス様から力が放出され、私たちが癒される時、イエス様の全存在が憐みに満ちておられることを、我々は知ることができる。

 

 神の全知全能とは、あまり関係のない思い巡らしになったが、今朝はここまで。