バルタン誠路nのブログ

聖書についての随想、書籍感想

「信仰のみによって救われること」と「十字架を負うこと」

 福音書最初に「十字架」という言葉が出てくるのは、

 マタイ10:38「自分の十字架を負ってわたしに従って来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。」のところである。
 この箇所は、10:34に「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはいけません。わたしは平和ではなく、剣をもたらすために来ました。」との、イエス様の宣言に続き、イエスに従うときに避けられない“家庭内の不和”を35節から37節にかけて具体的に述べれらた後を受けて、そのまとめというか一般化して言われたと理解できる。
 ゆえに、ここでの“十字架”とは、イエスに従うときに不可避的に生じてくる身内との苦しい関係を具体的には言っている。
 
 次に、「十字架」が出てくるのは、マタイ16:24「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」のところである。
 イエス様は、ピリポ・カイザリアでのペテロの信仰告白の直後、ご自分が殺されることと三日目によみがえることをはじめて弟子たち話された。それに対して、ペテロが「とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません。」とイエスの死を否定すると、イエスはペテロを「下がれ、サタン。あなたは、わたしをつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」と厳しく叱責される。
 この箇所は、それに続く場面である。ルカの並行箇所では、「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」と“日々”ということばが加えられている。ちなみに「下がれ、サタン」のイエスの言葉は、マタイとマルコにあって、ルカにはない。
 
 三度目に「十字架」が出てくるのは、マタイでは20:19で 、「異邦人に引き渡します。嘲り、むちで打ち、十字架につけるためです。しかし、人の子は三日目によみがえります。」で、これは、三度目の死と復活の予告の中で語れた。
 
 マタイでは、すぐ次の21章では、エルサレム入京となるので、この三度目の死とよみがえりの予告の時点では、それを聞いた弟子たちにも、イエスが具体的にローマの処刑方法である十字架刑のことを言っていること、イエスご自身がその処刑方法によって死ぬことを予告していると、想像できたであろう。
 
 ここまで来て、不思議に思うことがある。
 一つ目に、エスが語った最初の“十字架”は、ご自身がかけられる十字架ではなく、弟子たちが負うべき十字架であった。これは、かなり理解しがたいことのように思われる。ご自身の十字架の話をされる前に、「キミたちは、日々自分の十字架を負わなければいけない」と言われても、弟子たちはちんぷんかんぷんだっただろう。だから、この部分は、イエスの十字架死という出来事が起きたあと、それを経験した弟子たちが、あとから振り返って、後付けではじめてわかることがらだったのだと思われる。
 
  二つ目は、「十字架につけられる」と「十字架を負う」の違いである。永遠の神のご計画の中で、神の子羊がたった一度永遠に屠られるために十字架につけられる。それは、神の御子、我らと同じ肉体をとってこられた神ご自身であるイエス様だけの使命である。だれも、これに加えることはできない。この十字架に二本目はない。
 しかし、弟子たちには、そして私たちには、つけられるべき十字架ではなく、負うべき十字架がひとり一本ずつ与えられている。だれも、自分だけは負うべき十字架が与えられいない、という者はいない。
 
 さて、それでは、この一人一人が日々、負うべき十字架とは何であろうか。それは、端的にいって、「イエスを主」とすることに伴って、この世で不可避的に起きてくる困難さであろう。この世が神から離れたものである以上、その軋轢は避けられない。私たちの肉は、困難がないことを望むが、神は、かえって、この困難をわたしたちのあらゆる成長のために大いに用いられる。
 
 そこで、今回のテーマをもう一度、考えてみる。「A=信仰のみによって救われること」「B=十字架を負うこと」。これは水と油のように思われるかもしれない。しかし、この両者は、AかBかの二者択一ではなく、AゆえのBであることが実態である。
 
 つづきは、後日。