バルタン誠路nのブログ

聖書についての随想、書籍感想

ルカにおけるたとえ

 今朝、ルカの7章後半から8章前半を読んでいたら一つの発見をした。7章36節から、イエス様があるファリサイ派の人から招かれてその人の家に行き、食事をすることになった。(これだけでもプチ驚き、プチ発見であった。イエス様を食事に招いたファリサイ派の人がいたんだ。ファリサイ派がイエス様が罪人と一緒に食事をするのを外から見ていて「いーけなんだ、いけないだ。」と言う役回りかと思っていたのに。そして、ファリサイ派のニコデモは夜こっそりイエスを訪ねていったのに、このシモンは堂々と白昼、自分の家にイエスを招いて、食事までしている!)

 

 そこに、罪深い女がやってきて、イエス様の足元に香油を注ぎ、自分の涙と髪の毛でイエス様の足を洗った。それを見ていたホストのシモンは心の中で思った。「このイエスが本当の預言者なら、この女がどんなに罪深い者かわかるはずだ。」イエス様はすかさず、それを見抜かれた。

 

 問題は、この次だ。イエス様はシモンに対して「シモン、あなたに言いたいことがある。」といきなり言われた。シモンはドキッとしただろう。しかし、「先生、お話ください。」と一応、大人対応。するとイエス様は「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた」とたとえを話始められた。

 

 まず、一つ目の発見(ビックリ)は、ふつうは、「いいですか、シモン。あなたは、私が入ってきたとき、足を洗ってくれなかったね。でも、この女は‥‥」と観察から入り、事実を共有。相手に有無を言わせないところに追いやり、次に教訓を垂れる。「いいかね、多く赦された人ほど、多く愛するものなんだ。」と真理を抽出して語る。フォローとして「たとえばね、ある金貸しから、‥‥」と具体例を出して、説明して真理を抽象的な真理を相手に印象付け、なじませる。これが、私だったら取る手順だと思うし、この手順が普通ではないかと思う。

 

 しかし、イエス様はいきなりたとえから入られるのだ。「あなたに話がある」と言われて身構えた人が、いきなりたとえを聞かされたら、これまた面食らうのでなないだろうか。なぜ、イエス様はこのような語り方をなさるのか、考えた。今朝の私の想像では、イエス様はシモンに自分で真理に直面して、自分で決断をするところに立たせようとされたのではないか、ということだ。たとえの一般論として、「決断を促す」(A.M.ハンター)があるが、まさにその通りだと思う。

 

 そして、しばらく読み進むと今度は8章4節から「種を蒔く人」のたとえが出て来た。「そうだ、そうだ、種まきのたとえは、マタイにも、マルコにも、ルカにも出てくる数少ないたとえだ。そして、三つとも一番最初に出てくるたとえ、、、あれ、そうではないな。」と思った。たとえはたくさんあるので、小見出しの中に「たとえ」とあるものを便宜上ピックアップするとこの「種を蒔く人」のたとえは確かにルカでもトップバッターになるが、実質さっきの7章41節からのところにすでにたとえは出てきているではないか。

 

 そこで、パソコンで聖書の語句検索をしたところ、ルカで最初に「たとえ」という言葉が出てくるのは、5章36節からの「新しいぶどう酒は新しい革袋に」のところと分かった。このところは完全にストーリーに展開されているとまでは言えないので、一般的にはあまり「たとえ」と認識されていないように思う。しかし、ギリシア語でもちゃんと「パラボレー」が使われている。

 

 ということで、二つ目の発見(そうだったのか)は、ルカでもたとえはところどころにまとめて出てきたりもする。たとえば8章とか15章とか。しかし、もう少し自然に、バラバラと、イエス様が口をひらくたびに出て来たのがたとえなのだろう。そして、やはりたとえは、「わかりやすく」ではなく、「決断するところに直面させる」機能こそが本目的だと感じた。