ヨハネによる福音書の前半は、一章ごとに一人の人物がイエスと出会い、イエスとの間に噛み合わない会話がなされたり、イエスに変えられていったり、という展開が基本的には繰り返される。勿論すべての章でこのすべての要素が盛り込まれているわけではないが、最大公約数的にはそのように言えるだろう。
具体的には
1章:バプテスマのヨハネ
2章:母マリア
3章:ニコデモ
4章:サマリヤの女
5章:ベテスダの池の病人
6、7章は例外
8章:姦淫の現場で捕まえられてきた女
9章:生まれつき目の見えない男
10章:(ユダヤ人)・・・例外
11章:ラザロ
12章:ベタニヤのマリヤ
(13章以降は、特定の一人の登場人物のパターンは踏まない)
13章:12弟子
14章:トマス、ピリポ、イスカリオテのユダ
となって、一応、このパターンを割と綺麗に踏襲しているのは5章までで、一旦、6章と7章はこのパターンから除外され、12章くらいまでなんとかこのパターンで推移するとずっと考えてきた。
しかし、今回、ヨハネによる福音書を読んでいて、このパターンは6章、7章でも継続していて、8章以降にドッキングできる構造になっていることを発見した。
それでは、6章と7章の登場人物を発表しよう。
6章では、9節に登場する「無名の少年」だ。
「5千人の給食」の記事は4つの福音書すべてに書かれているが、この少年のことを書いているのは、ヨハネだけである。名前は記されていない。しかし、その日、この少年が持ってきたお弁当の中身は、2千年後の人々からよく知られているなんて面白い。
7章では、一人ではないが、イエスの兄弟たちである。3節と10節に登場して、イエスと実の兄弟でありながら、イエスに冷たい態度をとった、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンら(この4人の名前はマルコ6:3からわかる)である。
6章、7章のこの発見は小さな感動であった。
あまり言葉に具体的には表現できないが、「そうなんだ。」「なるほど、ヨハネってそうやって書いているんだ。」と、一人合点かもしれないが、ヨハネ福音書の舞台裏を覗いたような気がした。