バルタン誠路nのブログ

聖書についての随想、書籍感想

ルカ福音書の「いなくなった息子のたとえ」に至るまで

今朝、ルカの14章の途中から15章の終わりまでを読んだ。章をまたがって読んだため、一つの発見をした。

 

14章25節から「弟子の条件」というセクションがある。

①父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命さえも憎まないない者があれば、

②自分の十字架を負って、私に付いて来る者でなければ、

③自分の財産をことごとく捨て去る者でなければ、

の3つの条件が、

「私の弟子でありえない。」という同じ言葉で結ばれている。

 

15章に入ると

①「見失った羊」のたとえ

②「無くした銀貨」のたとえ

③「いなくなった息子」のたとえ

と三つの「なくしたものが見いだされて喜ぶ」というたとえが語られる。

 

今まで、「弟子の条件」と「15章の3つのたとえ」になんらかの連関を感じたことはなかった。また、15章の3つのたとえは並列的に捉え、100分の1、10分の1、2分の1という数字の変化や、羊、銀貨、息子という無くしたものの変化などを比較することはあっても、それ以上有機的な連関を感じたことはなかった。

 

しかし、今回、「弟子の条件」と「15章の3つのたとえ」が、最後の「いなくなった息子」のたとえに流れ込んでいく有機的な連関の中にあることを教えられた。

 

①弟息子、兄息子ともに「弟子の条件」の一つ目「父を憎む」をそれぞれの立場と関係から行っている。

 

②弟息子は、「弟子の条件」の三つめである「財産をことごとく捨てる」を不本意な形で達成している。

 

③「見失った羊」の一匹は、在るべきところから離れていった弟息子と符号し、「無くした銀貨」は家から動かない兄息子と符号する。

 

ここまで書いて、まだ何とも関連していない「弟子の条件」の二つ目の「自分の十字架を負って、私に付いて来る」は、我に返って父の家に帰る弟息子と重ねようかとも思ったが、それは無理筋かと思う。

 

ということで、残された「自分の十字架を負って、私に付いて来る」は、ここまで読んできた自分に迫られる決断、という位置づけなのだろうと今は受け止めている。

 

「いなくなった息子」のたとえは、最後、兄がどういう態度をこれから取るのかがとても気になるまま終わっている。もしかしたら、兄は父の招きを受け入れられるようになったかもしれない。あるいは、失われたままかもしれない。

 

大切な決断に読者を直面させるという、たとえの常道がすばらしく有機的に演出されているように感じられる。