バルタン誠路nのブログ

聖書についての随想、書籍感想

善悪の知識の木

「神であるは、その土地に、見るからに好ましく、食べるのに良いすべての木を、そして園の中央にいのちの木を、また善悪の知識の木を生えさせた。」(創世記2章9節)

 
「神であるは人に命じられた。『あなたは園の度の木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。』」(創世記2章18節)
 
「そこで、女が見ると、その木は食べるのに良さそうで、目に慕わしく、またその木は賢くしてくれそうで好ましかった。それで、女はその実を取って食べ、ともにいた夫にも与えたので、夫も食べた。こうして、ふたりの目は開かれ、自分たちが裸であることを知った。そこで彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちのために腰の覆いを作った。」(創世記3章6節~7節)
 
今朝、このところを思いめぐらしていて、今まで以上に確信を深めたことがある。
それは、「善悪の知識の木」とは、食べることによって善悪の知識が身に着くという意味での善悪の知識の木でない。むしろ正反対で、食べないことによって、善悪の知識が身に着くという意味での善悪の知識の木なのではないか、ということ。
 
食べないことによって身に着く善悪の知識は、「あなたは私の主」という告白に収れんする、神様との関係の中で学ぶ生きたキリストの内に隠されている知恵。それは、一人一人が食べないことによってのみ、個人的に与えられる。一律ではなく、一般化できず、マニュアルもなく、公式もない。繰り返しもなく、個人的である。
 
それに対して、食べることによって得る知識は、自分に関することであり、小さな自分で閉じている、自己中心的な知恵である。また、一時しのぎの、永続性のない知恵である。それは、場当たり的な知恵で、目の前のことを一つ片づけるための知恵である。そして、それは、神から独立して身に着ける、人間発、人間中心の知恵である。そして、究極的には誰をも幸せにすることができない知恵である。