バルタン誠路nのブログ

聖書についての随想、書籍感想

ソロモンの堕落と自由意思

 列王記第二は、10章までが、ソロモンの栄華を記しているが、11章に入ると、一転してソロモンの背神ぶりが描かれることになる。あれほどの、謙遜と知恵に満ちたソロモン、「主を恐れることは知恵の初め」(箴言9:10)と自分で真理を言い当てた本人が、これほど簡単に堕落するのか、とここを読むたびに考えさせられる。

 そこで、今日は少し考えた。これほど、多くの妻と側女を持ったのはなぜか。もちろん、すべてのことは、たった一つの原因からくるのではなく、常にさまざまな要因が複合的に絡み合っているに違いない。しかし、敢えて一つ、ソロモンの堕落の原因を挙げるなら、それは、平和の実現にあるのではないか。周辺諸外国との平和が実現し、ソロモンの名声が高まり、シェバの女王のように、ソロモンの知恵と繁栄を尊敬し慕う国々がたくさんあったのであろう。そうであるならば、その平和と繁栄を維持したいと願うのは当然である。そして、そのために、諸外国の王室と結婚外交で姻戚関係を結び、平和を安定化させようと考えても当然の成り行きだあろう。

 外国人を娶ってはいけない、とは出エジプト記34:12-16、申命記7:3などに明記されている。しかし、もしかしたら、「それは、イスラエルが弱小民族で、周囲の異教国の法が圧倒的に優位な状況で取り囲まれていた時代の話です。今は、こちらが優勢で、こちらの知恵と繁栄を皆が慕っている状況です。むしろ、積極的に姻戚関係を築き、真の神を彼らに教えてあげるのが自分達の使命ではないでしょうか。」くらいに考えていたかもしれない。

 これは、平和と繁栄がなければ起こり得ない誘惑である。そして、その平和と繁栄は紛れもなく、神によって祝福としてもたらされたものである。すると、ソロモンに誘惑の種になるようなものを与えたのは、神ご自身ということになるのか?イエスであり、ノーであろう。

 セックスによる喜びも同じようなことがあるかもしれない。セックスによる喜びは、それにより、夫婦が他では味わえないほどの一体感を得、一つとされた喜びを感じる。それを通して子を授かり、子供を一緒に育てることによって、さらに夫婦の絆が深まり、幸せを感じる。セックスが、神が人類に与えた最高の喜びであり祝福であることは明らかだ。しかし、人間の世で、セックスの喜びほど、人に道を外させるものはない。すると、神は人間に、人を最も堕落させる効力のある危険物を与えた張本人なのか?その答えもやはり、イエスであり、かつ同時にノーであろう。

 ここに、自由意思が絡んでくるのではないか。堕落の一番の可能性、危険性が、神が用意した一番の祝福と背中合わせに存在していることは避けられない。その危険性が背中合わせになっていないような祝福は、ある意味、ウソの祝福だ。どうしても、一番の祝福は、最強の誘惑とセットにしか有り得ない。それは、人間に自由意思が与えられているからではないか。自由意思を人間が持っていることが、人間が祝福を祝福として受け取れる前提条件なのだ。もし、人間に自由意思が与えられておらず、神から与えられるものを自動的に受けるだけの存在で、拒むということが一切できないなら、神が良いものを人間に与えても、それは良いもので有り得ても、人間が心からそれを喜び、感謝し、それによって人間がより神を知るような祝福とはなり得ない。祝福を祝福たらしめている裏地のような存在として、人間の自由意思があるのではないか。

 そうだとすると、祝福の背中合わせに堕落の危険性が配置されていることは避けられない。むしろ、堕落に引き込む最強の誘惑が背中合わせになっていることは、ホンモノの証明なのだ。このような設計になっているのは、神の知恵の限界を示すのではなく、神の知恵の深さを示している。陶器は陶器師に、なぜこのように自分を作ったのかと、問うことはできない。人間は、神が設計した、祝福と堕落危険性の関係性を変更することはできない。それを神秘として受け取り、感謝して受け続けるしかない。そこには、神が用意された、謙遜と祈りの歩み方がある。

 すべての栄光は溜めないで主にお返ししながら受け続けるのが、最高の知恵なのではないか。この知恵を働かせるためには、むしろ人間は弱い方が良い。ヘタに成功していない方が良い。だから、私は、私が今の私であることを神に思いっ切り、感謝しよう。

 

ソロモンの王国とエデンの園

列王記第一の3章、4章を読んだ。

ここには、一言で言ってソロモンの王国の繁栄ぶりが描かれている。

知恵を求める謙遜、それを求めなかったがゆえに与えられた知恵と判断力、富と誉れ。

周囲の国との平和などなどが、ソロモンには備わっていた。

象徴的な表現が4章25節にある。

「ユダとイスラエルは、ソロモンの治世中、ダンからベエル・シェバまでに至るまでのどこにおいても、それぞれ自分のぶどうの木やいちじくの木の下で安心して暮らした。」

これは、まるで創世記3章で認類が追い出されたエデンの園が、ソロモンの治世でこの世に再現したかと思わせるほどの、完璧ぶりです。欠けを思わせるような記述はありません。

 

しかし、やがてソロモンは、知恵も王国も平和も失っていきます。エデンの園に似ている要素があるというのは、そこからの追放についても言えるのです。

 

人間は本当に、愚かで、過去の失敗から学ぶことが苦手て、それを繰り返してしまう存在であることを、ここからも通関します。

 

一匹の羊となって、良き羊飼いイエス様に飼っていただくしか道はないのですね。

パウロの誇り

コリント人への手紙第二11章21b〜27辺りに、パウロが自分について誇れることを長々とリストアップしているところがある。

 大まかに言うと、イスラエル人としての純粋さ、耐えてきた迫害・困難の多さと酷さなど。私は、長年、単純に、ここは、パウロが、普段は心の中にしまっていることをたまには出したくなて出してきたんだろう、と勘違いをしてきた。しかし、今朝、ここを読み、パウロの趣旨が全くその正反対であることに気づいた。

 文脈を見ると、この「誇りのリスト」は、21節の「言うのも恥ずかしいですが、私たちは弱かったのです。」と29,30節の「だれかが弱くなっているとき、私は弱くならないでしょうか。だれかがつまづいていて、私は心が激しく痛まないでしょうか。もし誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります。」に挟まれている。

 もう少し短く引用すると、「私たちは弱かったのです。」と「私は自分の弱さを誇ります。」の二つに挟まれている。文脈としては、この二つは、そのあいだの「誇りのリスト」を飛ばすとそのままつながる。なので、パウロは、ここでは、単純に「自分は自分の弱さ以外に誇るものはない」と言うことを書こうとして、この部分に差し掛かったことがわかる。

 そうであるならば、この「誇りのリスト」は、本当は、「誇りのリスト」ではなく「誇りにならないリスト」としてあげられているのだ。本当に誇るべき「自分の弱さ」と比べれば、いかほどのことでもない。弱さと言う真に誇るべきものが浮き立つためのバックグラウンドとして、この「誇りのリスト」が書かれているのだ。

ソロモンの知恵

今朝、通読表に従って歴代誌第二1章から4章までを読んだ。

1章には、ギブオンでの出来事が書かれている。

ダビデの後を継いで王になりたてのソロモンがギブオンに行った時に、主が夢に現れて「あなたの心にあるものを何でも願いなさい。それを叶えてあげよう。」と言われた。それに対して、ソロモンは、「知恵と知識」を願った。その願いを主はとても喜ばれ、「富も、財も、名誉も、あなたを憎み者のいのちさえも願わず、また長寿も願わず、むしろ、わたしがあなたをその王として立てたわたしの民を裁くための知恵と知識を願ったので、その知恵と知識があなたに授けられる。またわたしは、あなたの前のどの王にも後の王にもないほどの富と財宝と誉れをあなたに与える。」(Ⅱ歴代1:11,12)

 

 並行記事は列王記第一の3章である。歴代誌は、列王記と比べて南ユダ王国寄りである。イスラエルの王のことは書かないし、ダビデとバテシェバのことも書かない。しかし、このソロモンのギブオンでの出来事については、明らかに歴代誌より列王記の方が詳しく書かれている。少し、不思議な感じがした。

 

 それはさて置き、今朝、一つの発見をした。2章では、ソロモンが隣国ツロの王ヒラムに、神殿建設の協力を要請する内容が書かれている。レバノン杉、もみ、白檀などの木材を供給すること。そして、金属や織物、彫り物などの技術に精通しているそれぞれの分野の熟練工を派遣することも要請している。

 

 「そこで今、私のもとに、金、銀、青銅、鉄の細工、および紫織物、紅織物、青織物の製造に熟練した人で、各種の彫り物の技術を心得ている人を送ってください。父ダビデが備え、私のもとにいるユダとエルサレムの熟練した者たちも一緒に働きます。また、レバノンから杉、もみ、白檀の木材を私のもとに送ってください。あなたの家来たちがレバノンの木を切ることに熟練していることを知っております。もちろん、私の家来たちも、あなたの家来たちと一緒に働きます。」(Ⅱ歴代2:7,8)

 

 ここまでの内容は、別にこれまで知らなかったわけではない。ツロの王ヒラムは、ソロモンの父ダビデとも親交があり、その関係から協力を要請した。レバノン杉は有名で、それがソロモンの神殿の建設に使われたこともずっと昔から頭に入っていた。ツロから、熟練工がたくさん派遣してされて、彼らの助け無くしては、神殿建設も様々な神殿で用いられる神具も作れなかったことも知っていたつもりであった。

 しかし、今朝、はたと思った。フラムも送られてきた熟練工たちも、もしかしたら異教徒ではないのか。ソロモンは「主の御名のために宮を建て」るとヒラムに言っているし、ヒラムの返事で次のように言っている。

 

  ツロの王ヒラムは文書を送ってソロモンに答えた。「主はご自分の民を愛しておられるので、あなたを彼らの上に立てて王とされました。またヒラムは言った。「天と地を造られたイスラエルの神、主がほめたたえられますように。」(Ⅱ歴代2:11,12)

  しかし、だからといってヒラムがヤハウェの神に仕えていたわけではない。どんな先代からの親交があり、ヤハウェ信仰に理解があったとしても、外国人であり、異教徒であることは純然たる事実である。

 

 従って、ソロモンの神殿は、外国からの木材を材料に、イスラエルの熟練工とツロの熟練工が共同作業で作り上げたものなのだ。イスラエルの民が何よりもまして民族の象徴として誇った神殿、他のどの民族も拝んでいない、唯一の真の神であるヤハウェを礼拝する神殿は、実は、外国産の材料と外国人の知恵と労働をもって建てられていたのだ。

 

 ソロモンの知恵というと、大岡裁きに似た「この子を剣で二つに切り分けなさい。」の箇所やシェバの女王が家来を引き連れてきて、文字通り「聞きしに勝る」ソロモンの知恵に仰天したところが有名である。しかし、歴代誌第二の1章と2章を続けて読むと、実は、神がソロモンの願いを叶えて授けられた知恵とは、「私の家来たちも、あなたの家来たちと一緒に働きます。」に表される心の広さだったのかもしれないと思った。

 

 私はここ15年ほど、キリスト教学校に奉職している。そこは、多くのノンクリスチャンの先生の協力無くしては成り立たないところだ。正直、私はずっと、「キリスト教教育がノンクリスチャンの協力によってなされる」ということに否定的な感じを抱いてきた。主を信じていない人たちにキリスト教教育はできるはずがない。できるはずがないものをやっているのは、妥協でしかない。まがいものだ、っと。しかし、今朝、「受け入れなさい。私はそれを喜んで受け入れている。私の栄光は彼らの働きによっても現される。それには、クリスチャンであるかないかの区別はない。」と語られたと感じた。

ダビデの偉大さ 神殿建設準備

歴代誌第一22:14-16

「見なさい。私は困難な中で主の宮のために、金十万タラント、銀百万タラントを用意した。また、青銅と鉄はあまりに多くて量りきれない。それに、木材と石材も用意した。あなたは、これらにもっと加えなさい。あなたのもとには、石を切り出す者、石や木に細工する者、各種の仕事に熟練した者など、多くの仕事をする者がいて、金、銀、青銅、鉄を扱うが、その人数は数えきれない。立ち上がって、実行しなさい。主があなたとともにいてくださるように。」

 

同28:2

ダビデ王は立ち上がって、こう言った。「私の兄弟たち、私の民よ。私の言うことを聞きなさい。私は主の契約の箱のため、私たちの神の足台のために安息の家を建てる志を持ち、建築の用意をしてきた。」

 

同28:11-12a

ダビデはその子ソロモンに、玄関広間、神殿、宝物室、屋上の間、内部屋、贖いの間などの設計図を授けた。
28:12 設計図は、すべて御霊によって彼に示された。」

 

同29:12a

「富と誉れは御前から出ます。あなたはすべてのものを支配しておられます。」

 

同29:14

「このように自ら進んで献げる力を持っているとしても、私は何者なのでしょう、私の民は何者なのでしょう。すべてはあなたから出たのであり、私たちは御手から出たものをあなたに献げたにすぎません。」

 

 ダビデは、若い時から主の宮を建てたいという願いを強く持っていた。しかし、ナタンを通じて、神様から「お前は多くの血を流してきた軍人だから、それには相応しくない。あなたの子がそれをする。」と言われた。

 

 私なら「せっかく良い志をずっと秘め持っていたのを公にしたのに、それに水を差すなんて!」とヘソを曲げてクサるのではないかと思う。しかし、ダビデはむしろ、その事業は息子がなうべきことと公式に言われたことを、自分および自分の子孫への破格の名誉と考え、大きな感謝を主に捧げる。

 

 しかし、それに止まらないのがダビデの偉大さだ。冒頭にいくつか引用した聖句からわかることは、ダビデは「あなたがするのではない。」と言われた後も、神殿建設の「準備」は全力で続けたのだ。それにはあらゆる種類の材料、人材がある。

 

 そして、今回新たに教えられたのは、実は、設計図は、ソロモンにではなく「御霊によって」「ダビデ」に与えられたのだ。ここまでくると、もう実際に誰が建てるかは、問題でなくなってくるのであろう。ダビデは嬉しかったに違いない。自分は建設者としては神に選ばれなかった。しかし、金、銀、木材、熟練工などを力の限り集めることは、神様から止められなかった。

 

 そして、それを続けている時に、神様から神殿と庭、付帯設備すべての設計図を御霊によって示された。ダビデは、この上なく嬉しかったに違いない。もしかしたら、自分が神殿建設を実行して完成したならば感じたであろう達成感以上の喜びをこの時ダビデは感じたのではないか。それまで、知らなかった程に深いところで主を知ることができたと感じたのではないだろうか。

 

 「富と誉れは御前から出ます。あなたはすべてのものを支配しておられます。」

自分は、若い時、こんなに良い願いはないだろう、といって、神殿建設を夢見てきた。しかし、それを神様によって止められなければ味わうことができなかった、深い深い喜びを、準備は続けることで得られたのではないだろうか。

 

ダビデの偉大さ、ナタンとガド

今朝、歴代誌第一21章を読んで教えられた。

この章には、先見者ガドが出てくる。

 

ダビデの生涯の中で、3度、先見者と言われる人が重要な役割を果たしている。

1回目は、ダビデが神殿を建てようとの志を表明したときに、登場したナタン。

ナタンのことは、過去にもブログで書いた。

一度、「王よ、あなたのお心にある通りをされますように。」と賛辞を寄せた直後に、ナタンは主からの御告げを受け、「神殿を立てるのは、戦争で多くの血を流してきたダビデではない。その子供だ。」という言いにくいこと、踵を返して王にそのまま伝えた。

 

2回目もナタンだが、ダビデがバテシェバを通じ、ウリヤを死に追いやり、まんまとバテシェバを妻にしたあと、約一年後、巧みな例えを持ってダビデに義憤を起こさせた次の瞬間「それはあなたです。」と、ダビデの心に悔い改めによって以外抜くことのできない神の言葉の剣を刺し通した。

 

3度目が、ガドで、ダビデが人口調査を敢行する罪に陥った時、ダビデの罪を示し、神の裁きを3つの選択肢の中から1つ選ぶよう迫った。

 

ダビデが偉大だったのは、このように、自分の過ちを神の言葉をもって正してくれる先見者を近くに持っていたことから来るのではないか。このように自分に直言する神の言葉を聞き、伝える人を遠ざけず、一番聞きたくない時に、言いにきてくれる関係があり、ダビデもそれを聞く度量と謙虚さを持ち合わせていたところが、他の人物にはないダビデの偉大さなのではないか。

巡礼者の定義 ワースビーより

ウォーレン・ワースビーのコメンタリーより

創世記26章23〜25節の解説

 

 Like his father Abraham, Isaac was identified by his tent and altar (Gen. 26:25; see also 12:7-8; 13:3-4, 18). Isaac was wealthy enough to be able to build himself a fine house, but his tent identified him as a pilgrim and stranger in the land (Heb. 11:8-10, 13-16). A fugitive is fleeing from home; a vagabond has no home; a stranger is away from home; but a pilgrim is heading home. The tent identified Isaac as a pilgrim, and the altar announced that he worshipped Jehovah and was heading to the heavenly kingdom.

 

特に上記太字部分

私訳を試みると

「家から逃げるのが逃亡者、家を持たないのが浮浪者、家から離れているのが旅人、そして家を目指しているのが巡礼者。」

となる。