ルカ福音書における「神の国」
ルカ福音書には「神の国」という表現は、32回(31節)出てくる。
それを私なりに分類してみると以下のようになる。
①宣べ伝えるべき福音の内容
4:43, 8:1, 9:2, 9:11, 9:60, 16:16,
②たとえで伝える主題
8:10, 1318, 13:20,
③旧約の生徒などはすでに入っている現実世界とは別次元の神の支配領域
6:20, 7:28, 13:28, 13:29, 14:15, 18:16, 18:17, 18:24, 18:25,
④やがてこの地上に実現する、近づいている神の支配
9:27, 9:62, 10:9, 10:11, 11:20, 17:20, 17:21, 18:29, 19:11, 21:31, 22:16, 22:18, 23:51
上記の分類はあくまで便宜的なものであり、「神の国」に四つの異なるものがあるわけではなく、本来は一つであろう。
今回は、動詞との関連で
①は、「宣べ伝える」「説く」「話し」「言い広める」などと一緒に使われている箇所
②は、「たとえられる」などと一緒に使われている箇所
③は、「入る」などと一緒に使われている箇所
④は、「見る」「近くに来ている」「近づく」「来る」「ある」「現れる」「近い」「待ち望む」などと一緒に使われている箇所
という基準で分けてみた。
今回の以下のことを新しい気付きとして教えられた。
17:21に「神の国はあなたがたのただ中にあるのです。」ということばがあり、これだとすでに「神の国」は、目に見える形ではないにしろ、この地上ですでに実現していると受け取れる。
しかし、基本的には、神の国はイエス在世当時は「近づいた」ものであり、やがて到来するもの、として描かれているという点である。
特に後半、十字架が近くなってくると、「十字架抜きの神の国の実現」を否定し、「十字架と復活」を超えて初めて実現する「神の国」を強調しているように思える。
ここで重要なのは、「すでに」に対する「やがて」あるいは「近い」「来るときまで」などの時間軸での対比よりも、むしろ、「今すぐにでも現れる」という「地上性」と「犠牲(贖い)」の欠如に対する「過ぎ越しが神の国で成就する」(22:16)に見られる現実世界との異次元性ではないかと考える。