バルタン誠路nのブログ

聖書についての随想、書籍感想

詩篇について普段から不思議に思っていたこと

150ある詩編の中で、世界中でもっとも愛され親しまれている詩編は23編でまちがいないだろう。しかし、もっとも詩編らしい詩編といえば、1編と119編が甲乙つけがたく双璧をなすのではないかと私は思う。

 

詩編第1編】

1 幸いな者

悪しき者の謀に歩まず

罪人のに立たず

嘲る者の座に着かない人。
2 主の教え喜びとし

その教え昼も夜も唱える人。
3 その人は流れのほとりに植えられた木のよう。

時に適って実を結び、葉も枯れることがない。

その行いはすべて栄える。
4 悪しき者は違う。

風が吹き払うもみ殻のよう。
5 悪しき者は裁きに

罪人は正しき者の集いに耐えられない。
6 主は正しき者のを知っておられる。

悪しき者のは滅びる。

 

詩編119編1節~8節】

1 幸いな者、完全なを行き

主の律法を歩む人は。
2 幸いな者主の定めに従う人

心を尽くして主を尋ね求める人は。
3 彼らは不正も働かず

主の道を歩む。
4 あなたは命じられました

あなたの諭しを固く守るように、と。
5 私の道が確かでありますように

あなたの掟を守るために。
6 そうすれば、あなたのどの戒めに目を留めても

恥じ入ることはありません。
7 あなたの正しい裁きを学びながら

まっすぐな心であなたに感謝し
8 あなたの掟を守ります。

決して私を見捨てないでください。

 

一見してこの二つの詩編がかなり似ていることは明白である。

「幸いな者」という宣言で始まり、「道」がキーワードとして出てくる。

そして、1編では、「主の教え」「その教え」と一種類だが、119編では、「主の律法」「主の定め」「主」「あなたの諭し」「あなたの掟」「あなたの戒め」「あなたの正しい裁き」とかなりのバリエーションがあるが、律法を賛美し、喜びとしている、という基調が共通している。

 

恥をさらすようだが、私は、長年、この二つの詩編の基調に対して漠然とした疑問を持っていた。すなわち、「新約の愛の教えならともかく、イエス登場以前のユダヤ教の旧約の律法に、それほど、絶え入るばかりに慕う要素があるのか?少なくとも、私にはその感覚がわからない。いったい、具体的には旧約聖書のどの部分をさしてそんな甘さを律法に対して感じているのだろうか?」という疑問だ。

 

パウロもガラテヤ書3章で、律法の役割は、信仰が啓示されるまで「すべての人を罪の下に閉じ込めて置く」ことだと言っている。そのような律法を蜜のしたたりよいも甘い、などといって慕えるものなのか。「こういう場合には、こんな動物をささげなさい、これは食べてもいいが、あれは食べてはいけない、こういう人は集会に集えない、」云々などと具体的にイメージされる、いわゆる「律法」はおいしくないもの、と私には感じられていた。

 

しかし、詩編1編と119編でここまで慕われている「主のことば=律法」とは、いったい何を具体的には意味しているのかということを確かめたくなった。

そこで、自分なりに旧約聖書を頭の中で復習してみた。

 

まず、基本中の基本として旧約聖書全体、あるいはその「律法」の部分の中核を形成しているのは、文句なく「モーセ十戒」である。

 

出エジプト記20章から、「十戒」を引用してみる。

出エジプト記 20章

【前文】

1 それから神は、これらすべての言葉を告げられた。2「私は主、あなたの神、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。

①【唯一神信仰】

3 あなたには、私をおいてほかに神々があってはならない。

②【偶像の禁止】

4 あなたは自分のために彫像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水にあるものの、いかなる形も造ってはならない。
5 それにひれ伏し、それに仕えてはならない。私は主、あなたの神、妬む神である。私を憎む者には、父の罪を子に、さらに、三代、四代までも問うが、
6 私を愛し、その戒めを守る者には、幾千代にわたって慈しみを示す。

③【聖名の尊厳】

7 あなたは、あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。主はその名をみだりに唱える者を罰せずにはおかない。

④【安息日の遵守】

8 安息日を覚えて、これを聖別しなさい。9 六日間は働いて、あなたのすべての仕事をしなさい。10 しかし、七日目はあなたの神、主の安息日であるから、どのような仕事もしてはならない。あなたも、息子も娘も、男女の奴隷も、家畜も、町の中にいるあなたの寄留者も同様である。11 主は六日のうちに、天と地と海と、そこにあるすべてのものを造り、七日目に休息された。それゆえ、主は安息日を祝福して、これを聖別されたのである。

⑤【両親への尊敬】

12 あなたの父と母を敬いなさい。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えてくださった土地で長く生きることができる。

⑥【殺人の禁止】

13 殺してはならない。

⑦【姦淫の禁止】

14 姦淫してはならない。

⑧【窃盗の禁止】

15 盗んではならない。

⑨【偽証の禁止】

16隣人について偽りの証言をしてはならない。

⑩【貪りの禁止】

17 隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛とろばなど、隣人のものを一切欲してはならない。」

 

ちなみに、10項目への仕切り方は教派によって違いがある。

また、【 】内の項目名は、筆者個人の命名である。

 

こうしてみると、【前文】及び、①【唯一神信仰】については、世界中にあまたある民族の中で、この偉大な真理を啓示してもらったことに対する賛美と喜びはわかる気がする。

 

そして、もう一か所、旧約の律法を代表している部分があるとするならば、出エジプト記19章4節~6節の部分であろう。

「4『私がエジプト人にしたことと、あなたがたを鷲の翼の上に乗せ、私のもとに連れて来たことをあなたがたは見た。5 それゆえ、今もし私の声に聞き従い、私の契約を守るならば、あなたがたはあらゆる民にまさって私の宝となる。全地は私のものだからである。6 そしてあなたがたは、私にとって祭司の王国聖なる国民となる。』これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である。」

 

この二か所は接近した箇所であり、ともにシナイ山からモーセに語らたことばであるので、二か所というより一続きなのだろう。

 

共通していることは、出エジプトという歴史的、民族的な出来事をベースにしていること。だから、旧約の律法というのは、[人間ならすべてに当てはまる抽象的な道徳律の共通エッセンス」のようなものというより、「私(と私の民族)は、奴隷の縄目から主の力強い不思議な御手によって解放された、他の民族はもっていない特別な関係を唯一神である主との間に持っている」という事実と関係性こそが特徴なのである。

 

そして、その特殊な関係に入れられたイスラエルの民族にだけ、「宝の民」「祭司の」王国」「聖なる国民」となると呼び変えてくるのが、律法であるならば、それは、全存在を傾けて慕うべきものということがわかってくるような気がする。

 

そして、ここまで書いてきてもう一つ律法を代表する箇所として浮かんでくるの、レビ記11章45節である。

「 私はあなたがたをエジプトの地から導き上り、あなたがたの神となった主である。私が聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者となりなさい。

 

ここでも出エジプトが土台として据えられていて、神の側が「わたしの性質は〇〇だから、あなたも〇〇になって!」という熱い要望こそが律法のエッセンスなのである。そして、この「〇〇」にあたる神様のご性質を一言で言い当てたことばを、それは人間の側からは探しようがない言葉であるが、神様は「聖=holy」とご紹介しておられるのだ。

 

好きな人ができたとしよう。その人が、「わたしは〇〇な人間だから、わたしが世界中でたったひとり好きになったあなたも〇〇な人になって!」と告白されたら、どうだろうか。その要望、注文は、自分を窮屈にする縄目ではなく、まさしく「絶え入るばかりにしたう」「昼も夜も口ずさむ」「どんな宝よりも楽しむ」ものであってなんの不思議もない。

 

このように考えるように教えらえた。

 

"Be holy, because I am holy."

これこそが、詩編1篇の記者、119編の記者がとらえていた律法のど真ん中ではないか!!