バルタン誠路nのブログ

聖書についての随想、書籍感想

光あれ ー創造とことばー

創世記第1章の創造物語で、というか聖書全巻の中で、神が発した第一声は「光あれ」である。

天地は創造されたが、まだ混沌と闇の状態で生物は存在していない。

なので、この言葉を聞いたものはいない。正確に言うと、神以外にはいない。

いくつかの疑問が当然起きてくる。

これは、いったい何語で語られたのか?

ヘブライ語であるはずもない。まだ人間が造られる前だから。

光が生じる前に、「光」という名詞が神の思いの中に存在したというのか。

発明家が、これまで世に存在しなかったものを作り出し、それに名前をつけるということはある。

その場合、世に存在しないものは、まず、その発明家の想像力の中に存在し、それに名前をつけることも可能であろう。

しかし、その場合であっても、そのイメージも既に存在する他のモノを何らか材料にしていて、名前にしても既に存在する無数の名詞をある意味組み合わせて思いつくのだと言ってよい。

しかし。この創世記1章3節の「光あれ」はまったくそれとは違う。

まだ、何も創造されていない、光すらこれからあらしめられる、その前なのだ。

この時に、ことばが発せられるとは、いかなることか?

人間の想像と理解を超えている。

これこそ、ヨハネ福音書の冒頭の「はじめにことばがあった」の意味するところか?

そう言っても、何も言っていないのと同じ気がするが、、、。

光以降の創造も、基本的には同じだ。そのものが存在する以前にことばが神のうちには存在し、人間の何語かではなく、神以外には聞くものがないところに発せられる、神は御心の通りに一つ一つの創造の業を、順序通りに、秩序正しくなさったのだ。

「神業」「カミ」の安売りはやめて欲しい。

これこそ、神のなさること。

ある意味で、御子の受肉も、十字架の贖罪死も、復活も、再臨も、新天新地もすべて創造における「光あれ」と同じ、神のことばなのかもしれない。人間にとっては、具体的、歴史的なプロセスを伴い、記述可能な出来事として捉えられる。しかし、神の目から見たなら、神の御心以外には存在しないことが、ことばとして神のうちにはあり、それがことばとして発せられる、その通りになる、ということなのかもしれない。

そして、私の生涯も、神のことばのひとつなのかもしれない。

私の妻の、既にピリオドが打たれた地上生涯も神のひとつのことばなのかもしれない。