バルタン誠路nのブログ

聖書についての随想、書籍感想

アブラハムの生涯に思う

アブラハムの生涯は、3つの大きな試練にまとめることがでる。

 
①行くところを知らずして出て行けとの召し(創世記12章~)、
②約束の子がいつまでも与えられないジレンマ(15章~)、
③イサクを献げよとの不条理(22章)。
それぞれを比較対象しながら、簡単にまとめると以下のようになるのではないか。
 
 
 ①行くところを知らずして出て行けとの召し
  持たざる者への試練。具体的な計画、将来像などがない状態での使命への船出。
 
  カルデアのウルは、繁栄の象徴であろうか。もう一言付け加えるならば神を離れた人間の文明・文化の繁栄であろうか。神は御自身の選びの器に、そこを出でよと声をおかけになる。父の家とは、自分に属する、最も自然にこの世で享受してよい地上的遺産であろうか。神は、それを放棄して、無一文になり、旅人になり、地上のどこにも属さないものとして、天にだけ望みを置くものとして歩まないかと挑戦される。この天の故郷に憧れる地上の旅人こそが、なんの保証もないように見えるけれども、最も確かな歩みをすることを神は啓示される。これが最悪の貧乏くじのように思えるけれども、神の祝福の高さ広さ長さ深さを堪能する道であることを我々の魂に語り掛けてこられる。
  ①の試練にひるまず歩みだす者に冴えわたるのは、インマヌエル(神我らと共にいます)の恵みである。
 
 
 ②約束の子がいつまでも与えられないジレンマ
  持ちえない者への試練。具体的な計画、将来像ははっきりしたが、いつまでたっても実現しないことへの忍耐。
 
  多くの場合、神の約束のことばは、人間が思うタイミングでは成就しない。人間がもうこれ以上遅れると取り返しがつきません、と神に訴えてもまだまだその時は容易には訪れない。そして、もう完全に望みがなくなったという段階にいたって始めて、神は本当に神であることを悠然と示される。人間の不可能は神の可能の前に問題でないことを。そして、どんな人間もこの「待望」と「絶望」を通らずして、神のことばの真実性、力を真に知ることはできない。
 
 
 ③イサクを献げよとの不条理  持てる者への試練。形となった祝福を手放す新しい出発。 
 
 信仰者にとって、①にも②にも勝って信仰生活上の高度な試練は、この③である。どんなクリスチャンも①、②の試練に尻込みせず、神のことばに信頼して歩み出し、歩み続けるとき、必ず祝福は具体的な形となってついてくる。問題は、その時だ。その形になった祝福こそが、偶像となり、私たちが神により頼んでいる感覚を1ミリも失わないまま、知らない間に、「生ける神ご自身」から、「生ける神ご自身より与えられた祝福」により頼むものへとの変質が起きる。これは、あまりにもシームレスで、だれも気付き得ないほどだ。
  力の限り神に奉仕しているつもりが、いつの間にか神ではなく神からの祝福、しかも形になった祝福こそが神になってしまうのだ。形になった祝福を守り、増やし、発展させていくことによって、神の栄光は更に現れると考える。形になった祝福が縮小し、衰退し、影響力を失っていくことは、すなわち神の栄光の消失と考えらえる。ここで、私たちが直面するジレンマは、世との関係である。私たちはあくまで世に生きている。地上に使命がある限りこの世から取り去られることはない。そして、先程来問題にしている「形となった祝福」の大きさはほとんどこの世の計りで評価される。最も端的なものが人数であろう。何人集まっているか。次に財であろうか。どれくらいの財が集まるか。次に偏差値であろうか。他の同様の働きと比べたときの相対評価である。これらを一言でいうと、「人気」である。
  神のみことばに従って始めたことが、いつの間にかこの世の人気でその価値を評価される運命にさらされる、それがジレンマである。神は、時に、そのジレンマからご自身の選びの器を更に召し出すために、それを献げよと声をかけられる。
  この声は、人間の常識からすると狂気としか思えない。イサクは、神の祝福そのものである。人間の不可能を神の可能で超えることができた証である。このイサクから多くの民が増え広がって行き、地上のすべての民が祝福を受けるという、神の祝福の橋頭保である。そのイサクを奉げよ、というのである。
  驚くべきことは、いったい、人間にこんな恐ろしい神の語りかけを聞く能力があるのかということだ。従えるかどうかは次の問題として、そのような神の語りかけを心の耳でキャッチして、そのことばに向き合うことができるとは、人間とは本当に素晴らしい存在として神様に造られたものだとつくづく思う。
  しかし、「父の家を出て、わたしの示す地に行きなさい」とアブラハムに語り掛けられた神が本当に生ける神であるなら、100歳のアブラハムと90歳のサラからイサクを生れさせた神が本当に生きておられるなら、その同じ神がアブラハムに「あなたの独り子イサクを献げよ」とチャレンジされることは、神の自由と特権の中に当然に含まれる。そして、人間には思いも及ばないこのチャレンジは、神が神の器をご自分の真のお気に入りの器に仕上げるための、練り直しなのだろう。
  そして、私たち新約のクリスチャンは、父なる神が独り子の神、イエス・キリストを十字架の上で、まったく失われ、そして、その痛みと喪失、死とのゆえに、それと引き換えに、初穂であるキリストの復活と、キリストのからである教会を生み出されたことを、神を知る最高の出来事として見続けることが許されている。 
 
 3つを貫き共通しているのは、何があってもなくても、神のみに信頼する者、神のことばこそが唯一真実であることを知る者となるために必要なプロセスだということ。 こんな想像をしてみた。①を通過したアブラハムはオタマジャクシ。生命として誕生しているが、未完成であり、水中でしか生きられない。③を通ったアブラハムはカエル。神様がデザインされた完成形。そして、水中でも陸上でも生きていける両生類。祝福が形となっていても、形がなくてもどちらでも生きていける。 この世のあらゆる形となった祝福は、必ずいつかはなくなっていく。あるいは、祝福がなくなるなどといった生易しいものではなく、もし神と呼ばれる存在があるならこんなことが許されるはずがない、ということが厳然と展開する。 ボンヘッファーは「神の前で、神と共に、われわれは神なしに生きる」と言ったが、アブラハムの生涯は、われわれに、「祝福の形がない時も、待つ時も、ある時も、取り去られる時も、神の前で、神と共に歩む」ことを教えているのではないか。