ナアマンをめぐる人々
列王記第二5章にはアラムの将軍ナアマンのツァラアトからの癒しの記事が書かれている。
通常ここは、当然、ナアマンに焦点が当てられて読まれるのが普通だろう。
しかし、今回読んでみて、ナアマンの周囲の人たちに関心を持った。
①ナアマンの妻に仕えていた若い娘
彼女は、戦争で略奪された奴隷。しかし、彼女の素朴な信仰と進言がナアマンの癒しに繋がった。
②ナアマンのしもべたち
エリシャが直接顔も出さず、ヨルダン川という二級河川に身を浸せ、という指示を出したことに激怒し、もうそのまま帰国しようとする主人ナアマンに対して、実に落ち着いた、分を弁え、主人が受け入れやすい、建設的な進言をした。勇気と愛をさえ感じさせる。こんな優秀な部下を持っていたのだから、やはりナアマンは優秀な人材だったのだろう。
③ゲハジ
この章ではしきりと「神の人」と言い表されているエリシャに一番近く仕えていた従者。
きっと、従者になるにはそれなりの志、信仰、犠牲があったのだろう。
しかし、愚かな動機から、全く愚かなことをしてしまった。
神を恐れることがなかった。その彼も、主人がいつも使う「主は生きておられる。」という言葉は使っている。(20節)
彼の悲惨さは、この言葉を使いながら、自らその事実を否定しながら生きていたことだろう。
④イスラエルの王
アラム王からの親書を読んで、言いがかりだと言って、衣を裂いた。
自分には殺傷与奪の力はない、との認識は正しいが、そこに自分ではなく神が関与しておられることを知らない。
⑤ナアマン
遥々恥をしのんで、謙ってやってきたのに、エリシャの接し方に激怒した。
彼の真の癒されるべき問題はプライドだったのか。
ヨルダン川で清められたのはその点だったのかもしれない。
神の言葉とその権威を信じ畏れて、自らを低くする時、その身の上に神の言葉が成就していく。