バルタン誠路nのブログ

聖書についての随想、書籍感想

ルサンチマン 「ニーチェ ツァラトゥストラ」(西研)

ルサンチマン――無力からする意志の歯ぎしり

 

 以上、ニーチェの人となりがわかるように人生を追ってきましたが、この章では『ツァラトゥストラ』を理解するうえで大切な言葉を一つ覚えていただけたらよいと思います。一つは「ルサンチマン」で、もう一つは「価値転換」です。

 まず「ルサンチマン」は「はじめに」でも紹介しましたが、フランス語でressentimentと書きます。sentiment(感情)に繰り返しのreがつくので、感情が振り払えず反復するというつくりの言葉ですが、じっさいには「うらみ・ねたみ・そねみ」を意味します。ニーチェが用いたことで、思想の用語として広く知られるようになりました。

 ぼくはニーチェ自身がルサンチマンにとらわれていたと確信しています。あれだけの秀才が『悲劇の誕生』を書いたことでどん底に突き落とされてしまった。自負の塊のような人で「自分の考えていることは絶対に間違っていない」と思っているのに、だれる相手にしてくれない。さらに病気と孤独に悩まされる。まさしくルサンチマンニーチェ自身の問題であったと思うのです。

 中略

 たとえば私たちは「なぜこんな親のもとに生まれたのか」と親をうらむこともありますし、「なぜ俺はあのときあんなことをしたのか、バカだった」と自分をうらむこともあります。そして「もし~だったらなあ」という「たら・れば」も復讐心とはやや感覚は違いますが、やはり一種のルサンチマンといっていいでしょう。これらのルサンチマンの根っこにあるのは、自分の苦しみをどうすることもできない無力感です。そして絶対認めたくないけれども、どうすることもできないという怒りの歯ぎしり。そこで、この無力からする怒りを何かにぶつけることで紛らわそうとする心の動きが起こる。これがルサンチマンです。

 このルサンチマンがなぜ問題かというと、ぼくなりの言い方をすると「自分を腐らせてしまう」からです。よりニーチェに即していいますと、悦びを求め悦びに向かって生きていく力を弱めてしまうことがまず問題です。そして「この人生を自分はこう生きよう」という、自分として主体的に生きる力を失わせてしまうことが二つ目の問題点です。ルサンチマンという病気にかかると、自分を人生の主役だと感じられなくなってしまうのです。



ルサンチマンキリスト教を生んだ

 

 中略

 

 『系譜学』の第一論文は「善と悪、よいとわるい」と題されていますが、一言でいうと「神は弱者のルサンチマンうらみ・ねたみ・そねみから生まれた」と主張するものです。

まずキリスト教が生まれた当時、ユダヤ人たちはローマの支配下にあって苦しんでいました。ユダヤ人たちにも王はいましたが、王はむしろローマと結託している。だから一般民衆は、王様に対してもローマ人に対しても鬱屈するものを持っていました。しかし反抗することもできず無力にあえいでいる。現実に強者となることなど不可能です。そこで用いたのが「神」でした。ユダヤ人は神を用いることで「観念」のなかで強者になろうとしたのです。ニーチェは「道徳における奴隷一揆は、ルサンチマンそのものが創造的になり、価値を生み出すようになったときにはじめて起こる」といっています。

 ニーチェはまず、「貴族的価値評価法」と「僧侶的価値評価法」という二種類の価値判断の仕方があることを主張しています。「貴族的」のほうが「よい/わるい」、「僧侶的」のほうが「善/悪」と表記されます。「貴族的価値評価法」から説明しましょう。これは自分の力が自発的に発揮されるときに感じる自己肯定のことです。たとえばサッカーをする人が「今日のオレの動きは只者じゃないぞ。ひょっとしてオレって天才か?」と思ったり、音楽をつくる人が「今日は溢れるようにメロディがわいてくるぞ」と感じたりするときのように、自分から力を発散することによって気持ちよくなり、自己陶酔する、そんな価値評価の仕方です。ニーチェは「私は高貴だ、力強い」と書いていますが、要するに「私ってカッコイイ!」という感じ方のことですね。「よい(gut)/わるい(schlecht)」という表記は、このような貴族的価値評価法をあらわします。「よい」とは「カッコいい、楽しい」を意味し、「わるい」は「カッコわるい、つまらない」を意味します。

 これに対して「僧侶的価値評価法」のを指します。そして悪は神からみて悪いことになる。つまりこちらの価値観は、「神からみて正しいかどうか」によって決まるのです。

 そしてこの「善/悪」の価値観の背後にはルサンチマンが隠されている、とニーチェはいうのです。ユダヤ人は貧しさにあえぎつつ、権力と富をもつローマ人や王族を憎んだ。しかし現実において彼らに勝つことはできない。そこで彼らは復讐のために神をつくり出した。「あいつらにはかなわない。私たちは苦しめられている。でも、天国に行けるのは私たち貧しい者のほうだ。富者や権力者は悪人であり地獄に落ちるのだから」と。神を用いることで現実の強弱を反転させ「心理的な復讐」を果たすことができる。自分が気持ちよくなって自己肯定するのではなく、強い他者を否定することで自己肯定する。これこそが「僧侶的価値評価法」の本質なのです。「僧侶的民族」であるユダヤ人は「よい/わるい」という貴族的価値評価法をすべてひっくり返し、「みじめな者のみが良い者である。貧しい者、力のない者、いやしい者のみが良い者である」とした、とニーチェはいいます。これが「道徳における奴隷一揆」の意味です。『新約聖書』の「マタイ伝」のなかに「貧しき者は幸いである。天国は彼らのためにある」「金持ちが天国に行くのはラクダが針の穴を通るよりも難しい」という言葉がありますが、これらの箇所の背後にニーチェルサンチマンを読み取っているのです。

 これらの言葉は、貧しい者を勇気づけてきたものであり、キリスト教のとても大事な教えだとされてきましたが、ニーチェはこれをしょせん弱者のルサンチマンだと一蹴します。しかも、このルサンチマンからつくられた価値評価法の結果、ひどくまずいことが起こったといいます。それは何か。神様に従う人間は、ひたすら「善いこと」しかしない。正しい掟が決まっているから創造的な試行や実験はすべて禁止され、心清く生きることばかりがめざされる。そこから生まれるのは「無難な善人」でしかない。もともと人間には貴族的なところがあって、自発的に新しいことを試しさまざまなものをつくり出そうとする創造性があるはずなのに、キリスト教はそうした創造性をことごとく抑圧してしまう、というのです。

 とはいいながら、ニーチェキリスト教を全否定しているわけではありません。ある断片のなかで彼はこういっています。「キリスト教的な道徳仮説はどんな利益をもたらしたか。それは生成と消滅の流れのうちにある人間の卑小さや偶然性に対して、人間に絶対的価値を与えた。(中略)四それは人間が自分を人間として軽蔑しないように(中略)取りはからった。それは一つの保存手段だったのである」(『力への意志』84)。

 つまり生にいかなる苦悩があっても、その苦悩に耐えて心清く生きた人は天国で幸せになれるというキリスト教には、人間の生きる意欲を守っていた面もたしかにあった、というのです。でも、もうこのままではいられない、とニーチェは考えていた。キリスト教というものは、いわば弱く小さい子たちを守ってくれた安全なシェルターのようなものだった。しかし、もうそのシェルターはあちこち破れてきている(神への信仰に疑いが出てきている)。だとすれば、もう人々はシェルターの外に出て、それぞれが生きる実験をし、より創造的になって高め合う努力をしていかなければならない。――ニーチェはそう考えていたと思います。

 「善/悪」の僧侶的価値ではなく、「カッコいい、おもしろい、わくわくする」という貴族的価値のほうへ。人は固定的な善や真理を守って生きるのではなく、みずから創造性を発揮していかねばならない。その意味で、ニーチェは「まさにいまこそ価値は転換されねばならない」と考えていました。

 『ツァラトゥストラ』の核心は、キリスト教の正体を暴いて、新たな人類の価値と方向を示そうという点にありました。しかし、どうやったら人は創造的になれるのでしょうか。苦悩とルサンチマンに負けない生き方は、どうやって可能なのでしょうか。『ツァラトゥストラ』の中身をより深く探っていくことにしましょう。